京都の冬は「底冷え」といわれ、北海道よりも寒いとか。
そんな冬真っ盛りの京都をより深く味わえるのが、京都市をはじめとする各所が主催する「京の冬の旅」です。
「キョウノフユノタビって何?」という方のために企画の説明をしますね。私、口下手なものなんで、京都市観光協会さんのHPから引用します。
「『京の冬の旅』は、桜や紅葉といった自然の魅力だけでなく、冬の時期に文化財や伝統文化・産業などの奥深い京都の魅力を伝え、ゆっくりと観光を楽しんでいただくためのキャンペーンです。冬の京都だからこその贅沢な時間をお楽しみください」
ってことです。ザーックリいうと「冬ならではの京都を満喫しましょう!」キャンペーンです(たぶん)。で、その「京の冬の旅・非公開文化財特別公開」の内覧会に、本サイト「Kyoto Love.Kyoto」の編集者として私もお招きいただきました。そこで『京の冬の旅』の「私なりの楽しみ方」をお伝えしてみたいと思います。
なお、コロナウイルス感染拡大の状況、社会情勢等により「京の冬の旅」が中止または内容変更となる場合がございます。
重要文化財のトイレ?!
と、その前に。残り2週間を切った限定公開の文化財をご紹介します。東福寺。全国屈指の紅葉名所として知られるこの寺に「百人便所」と称されるトイレの重要文化財があります。中央の通路をはさんだ左右に36個の丸い穴があり、ここで禅僧たちが用を足していたそうです。もちろん、排泄物は肥料として利用され、それらの作業もふくめて修行の1つとされいたそうです。36もの便器がならぶ様を「壮観」というのかはビミョーですが…。この世にも奇妙な「トイレの重要文化財」は3月6日までの限定公開です。
本堂にあたる法堂の天井一面には、巨匠・堂本印象が描いた「蒼龍図」が残されています。小僧達が墨を擦って、ホウキの様な大きな筆で17日程で描きあげたと伝えられています。こちらもお見逃しなく。
テーマは「茶人ゆかりの禅寺」と「建築の美」
今から500年前の1522年、後の世に茶道を確立するビッグネームが誕生しました。つまり、2022年は茶道三千家の祖・千利休がこの世に生を享けてちょうど500年を迎える記念すべき年なんです。また、その利休に学んだ大名茶人である織田有楽斎が亡くなって400年にもあたります。有楽斎は織田信長の弟で、東京・有楽町の地名の由来ともいわれています。「京の冬の旅」では、そんな茶道にとって節目の年にちなんで「茶人ゆかりの禅寺」と、そしてもう一つ「建築の美」をテーマに掲げています。
「この2つのテーマを中心とした14カ所の文化財特別公開や定期観光バスコースのほか、事前予約制・少人数制により、安心して京都の旅をお楽しみいただける体験型プランなど、魅力あふれる内容で開催します!」はい、これもパンフレットをそのまま引用しました。今回の記事は書くのがラクですね~。
桃山文化を満喫
さて、この2つのテーマに共通するキーワードが「桃山文化」です。豊臣秀吉が政権を握った時代ですね。ここでひとつ疑問が。「太閤秀吉はん」といえば大坂城。つまり大阪のイメージが強いですよね。なのに、なぜ歴史の授業では「安土桃山時代」と習ったのでしょうか?「安土」は織田信長が築いた安土城の地がそのまま政治の中心地となりました。対して桃山は?の前に、そもそも「桃山ってドコ?」が京都人以外の素朴な疑問ですよね。桃山とは、京都市伏見区にある丘陵付近の一帯の地名です。天下人・秀吉が、関白の座を甥の豊臣秀次に譲ったあと、隠居の地として選んだのが伏見桃山でした。名目上の権力者としての地位は秀次に譲ったものの、秀吉はその代名詞ともいえる「太閤」として実質的な権力を握ったままでした。ちなみに、太閤とは「この前の関白」の尊称です(厳密な定義はここでは割愛)。その太閤秀吉が政務を執るために桃山の地に築いたのが伏見城です。洛中と大坂の中間点にあった伏見桃山は、豊臣政権の重要な拠点でした。つまり、桃山とは太閤秀吉の本拠地であったわけで、そこから「安土桃山時代」と名付けられたワケですね。「桃山」の由来は、この一帯に桃の木を植えたことから江戸時代につけられたそうです(諸説あります)。40代以上の京都人にとっては「伏見桃山キャッスルランド」と称した遊園地としてのイメージの方が強いかもしれませんね。
さて、この伏見の城下町には大名屋敷が立ち並びました。「桃山町正宗」「伊達町」(伊達政宗)、「桃山町島津」(薩摩・島津義久)、「深草加賀屋敷町(加賀百万石・前田利家」など、そうそうたる大名を想起させる地名が、伏見の各所で現在も見られるのはそういう訳です。同時に洛中から多くの町民が移住するとともに、「聚楽町」「朱雀町」「神泉苑町」といった京都市上京区や中京区にある町名が、受け継がれたと考えられています。秀吉は伏見桃山に「もうひとつの京都」を創ろうとしていたのかもしれませんね。「醍醐の花見」で有名な醍醐寺や、東福寺など洛中から離れた地に桃山文化の花が咲いたのは、この伏見城の存在が大きいと思います。
京都がもっとも輝いていた時代
今回の「京の冬の旅」で私が着目した点。特別公開される文化財には、桃山文化の香りがそこかしこに漂っているということです。建築物そのものは古くから建てられたものが多いのですが、建物の内を彩る障壁画や天井図、襖絵などの多くが桃山時代の作品です。また前述の千利休や織田有楽斎が活躍したのも桃山の時代です。
では、その桃山時代とはどんな時代だったのでしょうか?私なりの目線で語ると「京都がもっとも輝いていた時代」、それが桃山という時代であり、桃山文化だったと思います。もちろん平安時代も京都隆盛の時代です。平がなをはじめ、国風文化と呼ばれる日本独自の文化が花咲いたのが、この時代です。ですが、平安時代は貴族の時代。雅ではあるものの、どこか堅苦しい空気が漂います。対して桃山時代は豊臣秀吉のキャラクターそのままに「自由と明るさ」に満ちた時代でした。
戦乱にあけくれた時代を終わらせたのは織田信長です。人々は、信長の野望の先にある平和な社会を望んでいました。実際、信長のおかげで、京都の治安は劇的に改善します。また楽市楽座や関所の撤廃といった政策により、経済も潤いました。信長によって民衆は戦国から解放された、これは事実です。しかし、同時に信長は「魔王」として恐れられていたのです。彼には彼の大義があったとはいえ、延暦寺の焼き討ちなど数々の虐殺を人々が目のあたりにしました。ちょっと想像してみてください。令和の現代、ほとんどの人が「このニッポン国を何とか変えてほしい」と思っていますよね。でもですよ、仮に「コロナ禍を100%終息、高度経済成長を再現、福祉もバッチリ」といった公約を掲げた「ノブナガ党」が現れて見事に政権獲得したとします。で、ノブナガ総理大臣は日本をゼロから立て直すために、霞ヶ関と国会議事堂を焼き打ち(超巨大リストラ)にして、見事に公約を果たしたとしたら…。やっぱり怖いですよね。「この人、次に何を言いだすんやろ?」てなもんです。
安土時代ってそんな感じだったんじゃないでしょうか?つまり「自由と恐怖」がセットの時代、それが安土という時代だったように思います。本能寺の変は、いろいろな意味で「恐怖から逃れるため」に起こった事件だといえます。さて、その後に政権を取ったのが、ご存じ豊臣秀吉です。彼の特徴をひとことでいえば「人たらし」に尽きると思います。天性のキャラと人心を読みとり、くすぐる術に長けていた秀吉は、かつての上司や同僚、難敵・徳川家康をも臣従させます。さらには天皇や朝廷まで「たらし」こみ、関白の座を手に入れたわけです。その人たらしっぷりは民衆にまでおよびます。その象徴といえるのが「北野大茶会」です。格式を重んじる茶会を一般大衆に開放し、関白自らが茶を点てもてなすという前代未聞の催しでした。現代でいえば昭和末期のバブル期のような華やかな雰囲気があったのだと思います。そのバブルは秀吉の死とともにあっけなく弾けました。その後にやってきた徳川江戸時代は、成長を否定した今でいうデフレの時代、また抑圧の時代でもありました。
桃山文化とは「信長の恐怖」と「家康の抑圧」という2つの時代の谷間に咲いた一輪の花、ひと時の栄華であったように思います。同時に京都にとっても特異な時代であったといえます。そんな視点をもって「京の冬の旅」で公開される各所を見て回るのも、もう一つの京都の楽しみ方ではないでしょうか。
非公開文化財特別公開
今回の「京の冬の旅」で特別公開される文化財は下記の通りです。
なお、コロナウイルス感染拡大の状況、社会情勢等により「京の冬の旅」が中止または内容変更となる場合がございます。