京都は美しい。桜咲く、あるいは紅葉散る神社やお寺を巡り、風景や文化財の美しさを愛でて楽しめる京都は本当に素晴らしいところです。京町家の造りの妙を学び、伝統工芸品や美味しいお土産を手に入れる喜びもあります。私ら京都人としても誇れるところですね。
町中に入っていけば興味深い京都の暮らしが見えます。京町家にあるおくどさん、通り庭、煙抜きの窓… そこには京都の暮らしの一部があります。そんな中にひっそりとたたずんでいるのが古い道具たち。知ったはりますか、古い道具は百年経つと付喪神になるって。京都人は物持ちが良うて、古い道具も大事に大事に使います。百年経ってるものなんかざらにありますよ。
そやし京都の中は付喪神だらけ。きっと人のいやへんところでは、付喪神同士しゃべってるに違いない…そんなことがあるかもしれん、と思わせるシーンがあちこちに転がっているのです。日の当たる明るい景色より、その「暗い陰に潜む」もののほうが、本物の京都を教えてくれるかもしれませんよ。
800年?の歴史を持つ「くらかけ」
ある西陣織の織屋さんの機屋(はたや=機を織る工場)を訪れたときのことでした。美しい織物に目を奪われため息をついていたら、だれかに見られているような気配がして、振り返るとある道具がふと目に入ってきました。よう見ると、その中にポツンと置かれてたのは、縦30cm横20cmくらいの板に4本脚のついた台。それは私にとってとても懐かしい物やったのですが、皆さん、知ったはりますか?
そこのご主人に聞いてみると、こちらでももう随分前から使(つこ)たはるものでした。名前は「くらかけ」といいます。くらかけはうちの家にもあったし、昔はあちこちのお家で見かけました。椅子代わりや足継ぎ(踏み台)として使われてましたね。しかし、なんでこう言うのやろ、と不思議に思うのがこの名前。なんか姿と名前が合ってないような気がしませんか?
そこでこの「くらかけ」についていろいろ調べてみました。歴史は思ったよりも古く「宇治拾遺物語」にも出てくるくらいなので、もう800年ほど前からあったようです(注1)。そしてその頃、「くらかけ」は名前の由来になるような使い方をされていました。つまり、馬の「鞍」を「掛ける」ために使われてたということ。「くら」を「かける」から「くらかけ」。分かりやすいですね。私が使ってた時はそんなところから名前が来てたとか思いもつきませんでした。
さて「800年ほど前」というと、西暦1200年ぐらいってことになります。歴史上の出来事でいうと後鳥羽上皇と北条義時が戦った承久の乱のころ。なんと大河ドラマの世界ですね!くらかけから馬が駆ける音が聞こえて来るような気がします。くらかけは「鞍を掛ける」ものなんですが、足が4本あるのでこれが馬のように駆けているような感じすらしてきます。そういうたら小さい頃、私はこのくらかけに乗ってお馬さんごっこしてましたねぇ。これが付喪神やとしたらそうやって走るのかな?と、ふと思い浮かべてしまいそうな形です。
そして時代は下って応仁の乱のころ、くらかけは能の舞台を見る時に椅子代わりに使われていたようです。(注2)少なくとも550年間は今と同じ用途で使われてたわけで、付喪神という名にふさわしい超長生きな道具ということになりそうです。
「くらかけ」の独特な形
さてこの「くらかけ」の形、足が4本というのはごく一般的な椅子とあまり変わりはないですが、結構独特なところもあるんですよ。まず、上部の板の下にある足はそれぞれ平行ではなく、放射状についています。台のかなり内側からにょきっと生えてます。他の踏み台を見ていると、どちらかというと4本足のものより板の面で支えるものが主流のようですし、足があっても板の端に平行についています。これはやっぱり鞍を掛けるのに適した形にしたのかなぁ、とか想像がふくらんでいきます。
また、釘はつかわれておらず板に足が差し込まれています。昔の木製品には差し込み型のものが多いですが、愛用者の中には、そのおかげで錆びず長持ちしてます、と言う方もいます。実際踏み台にして使ってもとても頑丈で、付喪神になるまで使い続けてもびくともしません。
私の知りあいに「くらかけ」が家にあるか聞いてみたのですが、結構ありましたね。どのお家でもまだまだ現役で大事に使われています。写真をいただいたこの2軒のくらかけは相当年季が入っています。黒光りしても色が剥げてもスクッと4本足で力強く立つ姿、付喪神級のオーラが出てますね!
今回調べてみて「うちにもある」「うちでもまだ使っている」とたくさんのお返事いただきました。いろんな仕事のお家にあることがわかったのですが、やっぱり西陣織関係のお家にあるのが多かったです。うちも両親が機を織ってたので、くらかけが大事に置かれてたんでしょうね。
「はたのあば」って何?
よく見るとこのくらかけ、高さはいろいろですがほぼみんなおんなじ形で作られています。そして京都以外の方のほぼ誰からも「持っている」という声を聞きませんでした。どうやら「京都の付喪神」決定ですね。さてそこで1つ疑問が湧いてきました。「くらかけ」はどこで作られたのでしょう?
調べてみると、「はたのあば」(注3)ていう人らが売りに来たはったということがわかりました。「はたのあば」って聞いてもわかりませんよね。これはちょっと順番に説明しましょね。
「はたのあば」 は 「はた」の「あば」
「はた」の「あば」 は 「畑」の「姥」
「畑」の「姥」 は 「梅ケ畑」の「おば」
ていうことで、「はたのあば」とは「梅ケ畑のおばちゃん」のことやったんです。梅ケ畑は高雄にあるので「高雄女(たかおめ)」とも呼ばれていました。(注4)「あば」は京ことばで、私が小さい頃親戚のおばさんのことを「あば」て呼ぶのを何度も聞いてました。でも今は全く聞かへんので、これはもう死語かなぁ。
さて意味は分かったんですが、そしたらどうして「梅ケ畑のおばちゃん」が「くらかけ」を売りに来たはったのかということが知りたくなりますね。まず、梅ケ畑というところの説明をせんとあきませんが、ここは右京区の鳴滝や北嵯峨の北部に位置する、周山街道沿いの地域です。そこは林業がさかんで、材木には困らん地域。「くらかけ」はその細かい材木の切れ端や間伐材で作られ、京都の中心部まで行商で売られるようになったということでした。
ここで1つビックリするようなことがわかりました。それはその売りに来るときの姿です。くらかけを1個だけ売るために来るわけやないので、いくつかの商品を運ぶわけですが、あの重いハシゴや床几(しょうぎ)まで持ってくるっていうのです。何百年も前から続いてたわけやから、トラックで運んでたわけではない。そしたらどうしてたかというと「はたのあば」は、なんとこれらを頭に乗せて持って来たはったというのです!40kg以上あるそうですよ!(注5)この写真を見ても信じられませんよね。重すぎる、バランス崩したら落ちる!方向変えたら絶対どっかに当たるやつです。最初見たとき合成写真とちゃうか、て思ったくらいです。
そしてもう1つ特徴的なのは「はたのあば」が商売上手やということ。売れると見たら強引にでも買わせる手腕があったとか!「弥次喜多道中記」にも「はたのあば」にはしごを買わされたお話があるそうですから、その強気は有名なことやったんですね。
また梅ケ畑は、あの承久の乱の後鳥羽上皇さんが北条氏に追われ逃げ込まはった場所でもありました。「はたのあば」は荷物を運ぶときにクッションを頭に乗せていますが、それは後鳥羽上皇が自分の衣服の袖をお米の袋として使うように言ったのが始まりで、彼女らは非常にそのことを大事に思っていたそうです。また、時代が下ると皇室で大事な御用を仰せつかり(注6)さらに皇室との関わりが強い地域となりました。きっと梅ケ畑の人たちは誇りを持ってこの地で生活をしてこられたことでしょう。くらかけを運んできた「はたのあば」の強さにはそんな下地があったのかもしれません。しかし「はたのあば」も次第に時代の波におされ、いつしかその行商も絶えてしまいました。
西陣とともに生きるくらかけ
このようにくらかけは、京都の長い歴史の中でしっかりとその役目を果たし生きて来ました。中でも西陣の機織りには無くてはならんもんやったと思います。織機(しょっき)の前に座るときの小さな椅子として、糸や紋紙の調子を見る踏み台として、はさみや杼などの道具を置く台として。その小さな小回りの利くくらかけは、他の椅子などと比べてもかなり便利な道具やったと思われます。そのため、もう「はたのあば」が売りに来んようになってもほかさんと大事に大事に使う。黒光りするまで、付喪神になるまで、長い期間使い続けられたのです。
西陣は何度も景気のええ時代がありました。直近では高度成長期。織っても織っても売れた時代です。そのころはくらかけもフル回転で使われてたのでしょう。
「西陣の旦那さんはもちろん、織子の羽振りも良かったし、ワシらに座って機織ってる時間も長うなったもんや。嬉しかったなぁ。」
付喪神やったら、きっとこう言うたに違いありません。そやけど西陣も、昔の隆盛からは程遠い状態となりました。西陣の中心地に来ても、機の音が響く街並みはどこかへ行ってしまったよう。機を織る音が「うるさい!」と言われるところまであったと聞きました。西陣と言われる地域の中でも西陣織はそのごく一部としての存在になってしまったのです。
でも京都人は物持ちが良い。くらかけをこれからも大事に使います。機の前に置かんようになっても、その「暗い影に潜む」付喪神になっても。いつかまた西陣に活気が戻ってくることを願いながら…
(1)「宇治拾遺物語」1221年ごろ 「移(うつし)の鞍二十具、くらかけにかけた りけり」
(2)以下に椅子として使われた記述がある。
「禅鳳雑談」(1513頃)「禅鳳とくらかけにて見物申候」
「多聞院日記」天正15年(1587)「昨日より薪の能の鞍懸立了」
(3)資料には「はたのおば」と表記されることが多い。
(4)「日本百科大辞典」2巻 p.109-110
(5)「京の女人風俗」京都新聞社編p.43 「日本百科大辞典」2巻 p.109-110「大原女」の項では「高雄女」の解説として約90kg(24貫目)の荷物を乗せたという記述がある。
(6)同上 p.41「大嘗火頭(大嘗祭で火の管理をする役)」を行っていた。また、16世紀前半、梅ケ畑の住民は通行税を取られないという特権を持っていた。「はたのあば」の衣装は、そこの住民であるという証明でもあったという。