遠くにありて都を想う 『隠岐から見た京都』

隠岐島とは

みなさんは「隠岐島」をご存知でしょうか?京都からはるかに遠い島根県の半島の、およそ70キロ沖にある、日本海の離島です。大小あわせて180ほどの島があり、その中で人が暮らしている島は4つあります。

筆者が暮らしているのは隠岐島のなかのひとつ、中ノ島・海士町です。およそ2300人の島民がおり、そのうちの2割が、島の外から移住してこられた方々です。
この海士の地の歴史は古く、遠く奈良時代、都へ海産物を納める土地として知られていました。隠岐から都に届けられた海産物のなかで、特に珍重されたのが、鮑(あわび)を干して作った干し鮑で、都の貴族の人々にとっては、高級官僚の方のもらえるボーナスとして知られていました。ほかにも、烏賊や海藻などが都に運ばれていたそうです。隠岐島の人々がせっせと都に貢ぎ物を納めていた奈良時代に、神亀元年(724年)、隠岐は遠流の地と定められ、都での政変に敗れた人が送られてくる、いわゆる島流しの地となりました。島流しの刑のなかでも「遠流」は、特に重い刑でした。隠岐と同じく「遠流」の地として定められたのは、伊豆、安房、常陸、佐渡、土佐の5つの国でした。


 

都を追放された後鳥羽院

都を追放された、さまざまな方が隠岐・海士の地に来られていますが、その中でも特に有名で、今年とくに大河ドラマでも注目を集めているのが、「後鳥羽院」=後鳥羽上皇です。後鳥羽院は今からおよそ800年前の承久3年(1221年)、鎌倉幕府の執権である北条義時に戦いを挑みましたが、残念ながら、京に攻め上ってきた鎌倉武士の約19万騎の軍勢に、なすすべもなく敗れ、鎌倉幕府の命令で隠岐島へいらっしゃることになりました。42歳の時でした。
それから20年あまり、後鳥羽院は生まれ育った遠い京の都を想い続けながら60歳で隠岐・海士の地で崩御なさいました。
海士町では、後鳥羽院が初めて海士にご到着されてからちょうど800年という節目の年を迎えた令和3年(2021年)から、『後鳥羽院遷幸800年記念事業』を行っています。

後鳥羽院にとってはお兄様にあたる安徳天皇が源平の争乱の果てに壇ノ浦で平家の一門の方々とともに入水したのは、1185年(文治元年)。この年、都から遠く離れた関東の地に鎌倉幕府が成立。後鳥羽院の天皇、上皇としての人生は初の武家政権である鎌倉幕府の誕生とともに始まったと言えるでしょう。

4歳で天皇の位を皇子の土御門天皇に譲って上皇となり、文化の中心である京の都で「治天の君(ちてんのきみ)」として君臨した後鳥羽院。その活躍は多岐にわたりますが、中でも藤原定家や藤原家隆ら優秀な歌人たちを和歌所に召し集め編さんさせた勅撰和歌集『新古今和歌集』は、『万葉集』『古今和歌集』とともに「三大集」と呼ばれ、日本文学史上にその名を刻んでいます。

 

和歌がつなぐ縁

『新古今和歌集』に収められた、綺羅星の如き二千首にのぼる歌の数々を、鎌倉幕府の若き三代将軍・源実朝は敬慕し、都から遠く離れた鎌倉の地で将軍としての務めを果たしながら、家集『金槐和歌集』(きんかいわかしゅう)を自らの手で誕生させるのでした。『新古今和歌集』編纂の中心人物だった藤原定家を自らの師とし、後鳥羽院とも和歌を通じて関係を築いていきました。
すべての武士の頂点である征夷大将軍でありながら宮廷文化の結晶である和歌も深く愛した実朝。彼もまた、京への想いを抱き続けた人であったのかもしれません。思えば、彼の父である源頼朝も後鳥羽院と同じく、遠流の地である伊豆国に流され、約20年の配所暮らしを経験したのでした。源頼朝の父である義朝が1159(平治元)年に起こった平治の乱で、平清盛らに敗れたため、頼朝は13歳で伊豆の国に遠流の身となったのでした。けれども、頼朝が配流先の伊豆の国で、のちに生涯をともにする伴侶・政子と出会ったことが、巡り巡って承久の乱に繋がっていくことを思うと、運命の不思議さにおどろかされます。


 

隠岐の暮らしと「遠島御百首」

今、現代の私たちにも同じことが言えると思うのですが、生きていると、自分にとって不如意な出来事に見舞われたり、大きな失敗をしてしまったりします。そういう時、どうやって乗り越えていくのか。
幼いころから慣れ親しんだ文化の中心地・京の都から遠く離れた島で暮らすことになった後鳥羽院はどうしたか。後鳥羽院が選んだのは、自分が一度都で成し遂げた勅撰和歌集『新古今和歌集』を、自分一人の手でさらに磨き上げることでした。また、島で暮らしている間もずっと、和歌を詠み続けました。島に来て間もないころに成立したとされる『遠島百首(えんとうひゃくしゅ)』には、宮廷で洗練された雅の世界だけではない、後鳥羽院の率直な心象風景が垣間見られます。
後鳥羽院の詠まれた和歌のなかで特に海士の人々になじみ深いのはこの和歌です。

われこそはにゐじま守よ隠岐の海の
あらきなみかぜ心してふけ
遠島御百首 雑(ぞう)97

《訳》
われこそは新しくやってきた島守だ。
隠岐の海の荒い浪風よ。こころして吹くように。

後鳥羽院が島に来ることになったのは、戦に敗れたためでしたが、
この歌の中では、「新しくやってきた島守」として、これからこの地で
生きていくんだ、という気概が現れているように思います。

その一方で、後鳥羽院はこんな歌も詠まれています。

とはるゝもうれしくもなしこの海を
わたらぬ人のなみのなさけは
遠島御百首 雑(ぞう)79

《訳》
「どうしてますか」の言葉だけでは自分は嬉しくない。
この海を渡って会いに来ない者の人並みの情けなどいらない。

この歌で詠まれる波は、「人並み」の掛詞になっています。

美を貪欲に追求した後鳥羽院であっても、この、『遠島御百首』では、隠岐に来られてさほど月日が経ってない時期に詠まれた歌だからか、環境の急激な変化に気持ちがついていけず、激情が迸り出てしまったり、取り繕うことが出来ずに、生身の自分をさらけ出してしまっている。そこが、魅力だと思うのです。
歌を詠む都人たちが宮廷文化のなかで培ってきた姿勢は、四季のうつろいを優雅にうたいあげるということでしたが、隠岐の自然は、管理された自然ではなく、
ときに激しく心に吹き付けてくる、荒々しいものでした。
後鳥羽院は、この地で激しい自然の営みに身を晒しているうちに、あらたな歌の境地を切り拓いたのではないでしょうか。
あなたもぜひ、隠岐の島の風に吹かれに来てください。

おわりに

ちなみに、筆者は観光ガイドのお仕事もさせていただいており、毎日のように後鳥羽院の陵墓(お墓)である後鳥羽天皇御火葬塚にお客様をご案内しています。
「後鳥羽院は鎌倉幕府の執権・北条義時追討の院宣をお出しになりますが鎌倉方の武士の皆さんの結束が強くおよそ19万騎の幕府軍に京に攻め入られ、残念ながら敗れてしまい隠岐へ、いわゆる島流しとなられました。」とお話しするのですが、「気の毒なことねえ、でも、小栗旬の義時は私、憎めないわ…♡」と言われてしまうので、皆様はぜひ、後鳥羽院を応援してあげてください。宜しくお願いいたします。


レジ打ちをしつつ想ひぬいにしへの遠き都の夕暮れの空
「どうしてる?」「元気?」といつも聞いてくるお前自身を届けてくれよ
※自作の短歌です。

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この記事を書いたライター

島根県歌人連盟 会員
短歌結社『湖笛』所属。
島根県在住のエッジの効いた歌人の参加するネットプリント『うたしまね』に参加させていただいています。
島根県の離島・隠岐島在住の歌人です。
和歌も俳句も詠みますが、どれも中途半端です。
和歌・俳句・短歌大会の事務局に関わらせていただいています。
ご興味のある方はぜひご覧ください。
twitter:隠岐後鳥羽院大賞@welcomegotoba

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