9月9日は五節句、重陽の節句です。日本では平安時代から宮中の行事として取り入れられてきました。中国から入ってきた文化ですが日本のみならず東アジアの他の国でも重陽はあり伝統的な行事をする国もあるそうです。陰陽思想によると奇数が陽の数字であり、9は陽の数字の中で最も大きく、9が重なる日を「重陽」としてこの日を節句とし、さまざまに厄祓いを行います。現代では仏花の印象が強い菊ですが、鎌倉時代、後鳥羽上皇が菊紋を好んだことが皇室の菊紋の始まりとなり、また桜とともに日本の国の花「国花」とされました。邪気を祓ったり長寿を象徴する花でもあります。
「菊の節句」なのに菊の季節ではない?
旧暦では9月9日は菊の節句とも言われ、宮中では「菊酒」や菊の露を真綿に移し身体を拭う「菊の着せ綿」、室内を飾る「茱萸嚢(しゅゆのう)」、菊の花の出来栄えを競い合う「菊合(きくあわせ)」など厄除けをしながら菊を愛でて楽しむことをされていました。
菊の美しさを堪能する節句ですので存分に楽しみたいところですが、ここで一つ問題があります。五節句はそもそも旧暦の行事ですので新暦の9月9日を重陽の日とすると菊の本来の季節ではないのです。
同じ意味で七夕の日に雨が多いのも仕方のないことです。旧暦の行事は歴史が古く、気候風土に合っているものですので、なんとか現代でも工夫をして楽しみたいといつも思っており、9月に入ると早々に重陽の飾りを始めて、中秋の名月を迎え、秋の深まりと共に菊を長く愛でています。ちなみに2022年の中秋の名月は9月10日です。こちらは旧暦8月15日の夜に見る月(十五夜)のことで、秋の七草とともに月見団子を飾ります。今年は新暦9月9日の次の日が中秋の名月ですから少し慌ただしい秋の始まりとなります。
日本式の雅なレリーフ技法「置上」
さて、私どもは蛤の貝殻を取り扱っていますので、重陽にちなんで、茶道で使われる「菊の置上蛤香合」をご紹介しましょう。
「置上(おきあげ)」とは、日本式のレリーフで、絵柄を胡粉などで塗り重ね、盛り上げ、立体的に仕上げる技法です。茶道をされている方で蛤香合といえばまず、この菊の置上蛤香合を思い浮かべる方が多いでしょう。「置上」は貝だけでなく、漆や木地などのさまざまなものの上にほどこされるもので筆先で丁寧に一つ一つ置き上げられた菊は特に格調高く典雅な雰囲気を醸し出し特別感のある道具となります。
菊は不思議な力を持っている?「菊慈童」物語
貝合わせや貝覆いは雅な平安時代の貴族の伝統遊戯であり、重陽、菊の節句もまた宮中の行事であったことから、菊が置き上げられた蛤香合は王朝文化を感じる道具として好まれてきました。とも藤でも現代的な感覚の菊の貝合わせを数多く制作しており大変人気があります。中でも「菊慈童」をテーマにした貝合わせは、とも藤として初めて制作をした作品です。「菊慈童」は画題としても菊の季節に好まれ、歌舞伎や浄瑠璃の演目にもなります。能楽では観世流以外は「枕慈童」というそうです。中国が舞台の古い物語で、周の王の枕をまたいだ罪で流された慈童が菊の露を飲んで仙人になります。菊には不思議な力があると信じられていたのです。
着物に描かれた絵柄の謎
さて、菊置上蛤香合といえば、私にとってとても興味深く思うことがあります。この香合が着物の文様に使われていることがあるのです。
貝合わせや貝桶は古くから女性の良縁や夫婦円満を象徴する吉祥文様として着物の意匠となり、女の子の着物や婚礼の場面での着物や帯の絵柄として特に好まれてきました。その構図はどれもよく似ており、貝合わせ文様であれば蛤を象った中に王朝を感じる題材、牛車や檜扇などが描かれていたり、松竹梅や宝尽くし、鶴亀などのおめでたい絵柄や菊や桜など古くから愛されている花柄が散りばめられます。
貝桶文様であれば2つで1対の貝桶のうち、一つは紐が解かれて蓋が開き、桶の中には色とりどりの蛤がぎっしり詰まっています。貝桶の周囲には絡みつくように動きのある紐の様子とともに、外側にも絵が描かれた蛤や内側が色とりどりに装飾された蛤が賑やかに散らされ、華美な世界が広がります。本来の貝桶は漆塗に蒔絵で対になる2つともが全く同じ柄、仕様ですが、着物の意匠となった際の貝桶は、2つのそれぞれに違う絵が描かれることがほとんどで、貝桶の足も装飾的ですし桶の構造も本来の蓋や台などのありようを無視することでよりデザイン的なものとなっています。
着物に描かれた蛤の種類は?
さらに蛤の貝殻を取り扱う私としては描かれている蛤の種類、産地なども気になります。着物で描かれる蛤のほとんどが本蛤か外洋の蛤で、どれも丸みを帯び、ころんとした形です。三重県産の菱形ばった蛤を見かけることはあまりありません。蛤の噛み合わせのところは、ゲームとして遊ぶ場合には色を塗っても剥がれてきますから、本来は色を塗ることがありませんし、塗るとしても金色のことが多いのですが、着物に描かれる蛤はどれも噛み合わせの箇所まで多彩に塗られています。そして蛤の貝殻の外側に、まるで鱗のように放射状の花びら模様が描かれたものが見掛けられます。これが菊の置上がほどこされた蛤香合です。
貝覆い(貝合わせ)の遊びは蛤の貝殻の外側の柄の相方を探してゆく遊びです。ですので厳密に言えば貝殻の外側は自然のままにしておく必要があります。
まして、香合として菊の置上をされたものは茶道具ですから、貝合わせや貝桶に混ざってそこにある状況はあり得ません。貝合わせを仕事にした今となっては、こういった絵柄を見るたびに香合が間違って貝桶に迷い込んだような、いっしょくたにされている感じに見えてしまいます。しかし、そもそも着物の絵柄の魅力は着る人を輝かせることですから、題材を存分に使い、王朝文化の華やかさと優美さがひと目でわかる表現になっている絵柄は見事だとも思います。どの絵柄も全体がまとまっているので、絵柄としての不自然さは全く感じません。また現代においては貝合わせの文化や伝統を伝え残して行くための役割も果たしていると思います。
私は呉服屋に生まれ育ちましたから、貝合わせや貝桶の文様の着物を子供の頃から沢山目にしていました。ですので新たに現代的な貝合わせをご提案しようとした時、思いついたのは、まるで着物の文様のようなもの、お持ちになった方の心が華やぐような貝合わせ作品をご提案したいと考えました。着物の文様の自由な表現の世界はわかりやすく伝わりやすい、そして何よりも心が晴れやかになるものです。皆様も貝合わせや貝桶の着物や帯を見かけたら、菊置上蛤香合に気づいていただけると嬉しいです。
大人のための雛祭り「重陽の節句」
さて、重陽の節句では大人の雛祭り「後の雛」と言って雛人形を出すことがあります。江戸時代にそのようなことがあったらしく、一般的ではありませんが現代でも復古活動が行われています。雛人形・雛道具には菊の文様が使われていることも多く、私の持っている雛人形や雛道具にもデザインに菊が使われています。
3月に雛人形を出すだけでも大変なのに、9月にもなんてと思われる方も多いのですが、我が家では取り出しやすいところに三人官女などは仕舞っておいて、ことあるごとにすぐに出せるようにしています。人形と共に菊を飾ることで室礼がより一層華やかになりますので皆様も是非、重陽の季節、雛人形を出してみてはいかがでしょうか。京都では雛人形店などの店先のウィンドーで「後の雛」をされているところがあり何気ない日常の中で当たり前のように雅な世界が目に映るのは本当に幸せなことです。