葵祭で起きた大事件!? 源氏物語「車争い」にみる女の戦い

葵祭と源氏物語

京都の5月といえば京都三大祭の一つ、葵祭です。私が暮らしているのは上賀茂神社の近くですから、行列のコースと先頭の通過予定時間のチェックは毎年必ずしています。うっかりしていると行列にかかり、行きたいところへ行きにくいことになるからです。地域の人々の日常生活に少なからず影響する祭の行列ですがその華やかさと雅な世界は心に残るもので行列が中止になったりすると大変寂しい気持ちがするものです。
この行列は葵祭の「路頭の儀」と言います。葵祭は上賀茂神社、下鴨神社の例祭で古くは賀茂祭と呼ばれていました。賀茂祭は古い故実に則った祭りで、勅祭です。勅祭は天皇の勅使(使者)が派遣されてきて行われます。
葵祭の行列といえば源氏物語の第9帖「葵」で起こった「車争い」という事件を思い起こします。源氏物語絵巻が描かれた貝合わせでも「葵」は、その多くが牛車と人が入り乱れる「車争い」の場面で描かれていますのですぐに見つけられます。「車争い」は古典の授業で習うこともある有名な場面です。源氏物語は優雅な王朝貴族の華麗な物語ですが、54帖ある物語の中で9帖で起こったこの事件は後々の物語展開に大きな影響を与えました。源氏物語にとって「車争い」とはなんだったのか、検証してみます。

源氏物語絵色紙帖 葵 詞八條宮知仁
貝合わせ 葵

「車争い」とは

賀茂祭の行列に光源氏が加わるので、正室である葵の上は行列見物に出かける。そこでやはり見物に来ていた光源氏の愛人の六条御息所と車(牛車)の場所の取り合いになり、六条御息所の車は強引に立ち退かされる。六条御息所はその場を立ち去ろうとするが車が混雑していて帰ることも出来ない。そうしているうちに光源氏の行列が通り、光源氏の一行が正妻の車に心遣いをして通るのを見た六条御息所は我が身を惨めに思う。

牛車

賀茂斎院

「車争い」が起こった日について改めて知るためには賀茂祭(葵祭)について知る必要があります。そもそも賀茂祭(葵祭)とは上賀茂神社、下鴨神社に奉仕する皇女、賀茂斎院が主宰する祭でした。賀茂斎院とは伊勢斎宮と同様に内親王あるいは女王(皇族女子)から選出され、卜定(占い)によって選ばれます。選ばれてすぐになるのではなく、潔斎と言って心身を清める期間があります。まずは自らの邸で潔斎に入り次に「初斎院」という仮の場所にて潔斎します。
大体2年間以内の潔斎の後、3年目に「本院」という斎院の住まい(御所)に入ります。この本院は現在の京都市上京区の櫟谷七野神社のあたりと言われています。人から神に奉仕する斎院となるために行われる潔斎とは大変厳格なもので衣食住のあらゆる所で穢れを避けての生活となります。特に興味深いのは「忌みことば」です。話す中で穢れのあるとされる言葉は禁じられており、別の言葉に置き換えて使います。例えば「死」は「ナオル」、「病」は「ヤスミ」、「血」は「アセ」、「墓」は「ツチクレ」などと言い換えます。
本院に入った斎院は退下(退任)するまでほとんど外には出ません。賀茂祭は斎院の姿を見ることができるとても貴重な機会だったのです。

葵車争い

「車争い」は「御禊」の日に

さて源氏物語の「車争い」が起こった時の賀茂斎院は誰でしょうか。あまり注目されている姫君ではありませんが、弘徽殿女御を母に持つ桐壺帝女三宮(桐壺帝の第三皇女)です。弘徽殿女御は光源氏の母である桐壺更衣に桐壺帝の寵愛を奪われ、その後、妹の朧月夜も光源氏に奪われるなど光源氏に恨みを持つ因縁のある人物です。
そして注目すべき「車争い」の日は現在の葵祭でも行われている「路頭の儀」の日ではなく、その前に行われる「御禊(ごけい)」の日に起こりました。
「車争い」のあった年の賀茂祭では弘徽殿女御の息子の朱雀帝が即位していて、弘徽殿女御の娘の桐壺帝女三宮が斎院です。光源氏は桐壺帝の息子ですから身分が高いのですが桐壺帝女三宮斎院の御禊の行列にお供として加わると言う役割を与えられています。このような状況で、光源氏の正妻である葵の上と愛人である六条御息所が、光源氏の姿を一眼見ようと出向き、物語は「車争い」の場面へと突き進んでゆきます。

光源氏の妻は「葵の上」から「紫の上」へ

この「車争い」の後の「路頭の儀」まさに祭の当日に、光源氏はまだ幼い紫の上のところに行き、紫の上の「髪そぎ(毛先を揃えて切る)」をするのですが、この場面はすごくほのぼのとした場面として書かれていて、さらに二人は「髪そぎ」のあと仲睦まじく「路頭の儀」の行列見物に出かけます。この箇所を読むたびに正妻と愛人が大揉めした後なのに、この後、大変なことになるのに、知らないとはいえ呑気なものだと私はいつも思います。
物語が書かれた当時の賀茂祭では「御禊」の日と「路頭の儀」の日に華やかな行列が実際にあり、両日ともに人々が見物に集まりました。平安時代には高貴な女性は邸から出ることはほとんどありませんでしたから、物語の中で正妻と愛人を直接対決させるためには外出の理由が必要です。賀茂祭の行列見物は物語の中で決定的な場面を作り出すのに必要な機会でした。
「御禊」の日に事件が起こり、祭の当日「路頭の儀」には「車争い」の事件を知らない光源氏が、正妻でも愛人でもない若い女の子(紫の上)と一緒にいる、この場面で、光源氏の心がすでに紫の上にあるのではないかと言う印象も残ります。

紫式部はストーリーテラー

そして物語は進み、六条御息所は葵の上を呪い、葵の上は亡くなります。光源氏は弘徽殿女御の勢力に押されるように須磨へと流れ、その間、幼かった紫の上は美しく成長し、物語は紫の上と光源氏の愛を長い時間をかけて様々に描きます。もしも正妻である葵の上がいつまでも生きていたら、光源氏と紫の上が物語の中でのびのびと活動することはやはり難しいと思います。
「車争い」と言うドラマティックな事件とその後の六条御息所の恐ろしい変貌、さらには弘徽殿女御の妹で朱雀帝の寵愛を受けていた朧月夜と光源氏のスリリングな恋、源氏物語には沢山の女性の人生、生き方、男女の出会いと別れが、紫式部の巧みな筋立て、ストーリー展開によって見事に組み込まれています。単なる恋物語でなく、女性たちが人生とは、恋とは、結婚とはについて深く考えるきっかけとなる仕掛けが散りばめられています。源氏物語の名場面には昔の女性だけでなく、現代の女性にも深く刺さるものがあります。
葵祭の「路頭の儀」は現代でも見ることが出来ます。是非、多くの方に源氏物語が描き出した世界に触れるきっかけとしても葵祭をご覧いただき、行列の日をお楽しみいただきたいです。

参考文献
古典歳時記」吉海直人著 角川選書
「平成22年度特別展 賀茂斎院と伊勢神宮」斎宮歴史博物館
「斎王研究の史的展開 伊勢斎宮と賀茂斎院の世界」所京子著 勉誠出版
「紫野逍遥 〜賀茂斎院、その歴史と足跡を辿る〜」飛嶋千尋 神泉文庫
葵の御所 賀茂斎院とその歴史(WEBサイト)

画像
『源氏物語絵色紙帖 葵 詞八條宮知仁』
出典:国立博物館所蔵品統合検索システム

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この記事を書いたライター

京都市中京区の呉服店の長女として生まれ、生粋の京都人である祖母や祖母の叔母の影響をうけながら育つ。通園していた保育園が浄土宗系のお寺であったことから幼少期に法然上人の生涯を絵本などで学び始め、平安時代後期の歴史、文化に強い関心を抱くようになる。その後、浄土宗系の女子中学高等学校へ進学。2003年に画家の佐藤潤と結婚。動植物の保護、日本文化の発信を共に行なってきた。和の伝統文化にも親しみ長唄の稽古を続けており、歌舞伎などの観劇、寺社への参拝、院政期の歴史考察などを趣味にしていたが、2017年、日向産の蛤の貝殻と出会い、貝合わせと貝覆いの魅力を伝える活動を始める。国産蛤の?殻の仕?れ、洗浄、蛤の?殻を使?した?芸品の企画販売、蛤の?殻の卸、?売、?合わせ(?覆い)遊びの普及を?なっている。

|とも藤 代表|貝合わせ/貝覆い/京文化