秀吉が建てた大仏
かつて京都に、奈良東大寺の大仏よりも大きな大仏がありました。それは豊臣秀吉が建てた大仏です。
時は1586年、秀吉は現在の京都国立博物館などがある場所に、方広寺を建てます。
東大寺の大仏が戦火で焼失したことから、これに変わるものとして、2年後に方広寺の境内に大仏殿と合わせて大仏の建立を始めます。建立に携わった人は約6万人を超え、8年もの歳月をかけて1595年に完成しました。
大仏殿は高さ49メートル、南北88メートル、東西54メートルで、お城に相当する大きさがあったようです。大仏殿の中の大仏は、高さが約19メートルあり、東大寺の大仏を超える巨大なものでした。この大仏は漆で塗られた上に金箔が貼られ、豪華な造りだったようです。しかし、後に悲劇の大仏と呼ばれるようになります。そしてそれは豊臣秀次の怨念によるものだと言う人もいます。
悲劇の大仏
1591年に秀吉の弟(秀長)が死去し、同じ年に秀吉の嫡男・鶴松も亡くなります。後継者を失った秀吉は、甥の秀次を養子とし、関白に就任させます。全権をゆだねられた秀次は聚楽第に入り、天下人となりました。
ところが1593年、秀吉と淀殿との間に秀頼が生まれたことから、秀吉の考えが変わってしまいます。秀吉は、我が子の秀頼を後継者にするべく、秀次との二元政治を始めます。これが、秀吉の陰謀の始まりでした。
2年後、秀次は鹿狩りで山へ行くのですが、これが謀反の計画を立てるためだったという噂が流れます。秀次は釈明のために秀吉の所へ赴くのですが、面会に応じてもらえず、高野山で待機するように命じられます。高野山で謹慎後も許しは得られず、最後は出家します。しかし、その1週間後、秀次は切腹を命じられます。
秀次の首は、三条河原でさらし首になったと言われています。しかもその罪は妻、側室、子供、家臣にまでおよび、30名以上の人が打ち首になったそうです。秀次は秀吉の一連の行為を恨み、これを機に祟りが始まったとされます。
大仏の祟り
翌年から次々と悲惨な出来事が起こります。
まず、慶弔伏見大地震が起こり、大仏が倒壊します。「くそ大仏めが。何が大仏じゃ。このような地震で、無残にも潰れやがって」と、秀吉が怒鳴り散らしたと言われています。大仏以外にも、完成したばかりの伏見城の天守閣が倒壊します。
「隠居して、月を見るために建てたこの城は、最高じゃ」と、秀吉は常々正室ねねに言っていたそうです。その秀吉のお気に入りだった指月伏見城が倒壊したのです。ただ、天守の一部が崩れただけで火災も起こらず、資材が残っていたので、秀吉は木幡山に伏見城の再建を命じます。因みに、この地震で東寺、天龍寺、大覚寺なども焼失し、死者は1,000人を超えたそうです。
倒壊した大仏は秀吉の死後、ねねと秀頼母子によって1602年、青銅製の大仏として新たに計画されますが、再建途中に何者かによる放火か、失火で焼失します。
1612年、今度は銅製の大仏として完成し、2年後に梵鐘が完成します。ところが次はこの梵鐘が、有名な「方広寺鐘銘事件」を引き起こします。徳川家康が、梵鐘に『君臣豊楽』と『国家安康』の銘文がある、と因縁をつけて激昂したのです。
『君臣豊楽』は、君は豊臣であり、その子孫の繁栄を願っている、『国家安康』は、家康の名前の間に「安」の文字を入れて家康を割いた、と因縁をつけたのです。家康は、このことを理由に「大坂冬の陣」を仕掛け、1615年「大坂夏の陣」で豊臣家を滅ぼします。
姿を消した大仏
大仏のその後ですが、半世紀ほど経った1662年の近江・若狭地震で大破します。
1667年、4度目の再建を果たし3作目が完成。1798年、落雷により焼失し、大仏殿も一緒に焼失。1843年、寄進により小規模の木造の胸像大仏が完成。1973年、出火により焼失。ついに大仏は京都から姿を消すのでした。
このように京の大仏は消滅してしまいますが、3作目(1667年完成)を造るときに試作品が作られていました。大きさは10分の1ですが、第4代将軍・徳川家綱が大徳寺に寄進したもので、現在も大徳寺の本尊(釈迦如来像)として安置されています。
なお方広寺の梵鐘は、東大寺と知恩院の鐘と共に日本三大梵鐘の一つとされ、現在も残っています。今となっては、京都の大仏を見ることはかないませんが、当時の大仏殿跡の石垣は現存していて、大和大路通りの道沿いに見ることが出来ます。
当時の方広寺の大きさを物語るように石垣も非常に大きく、その中には「泣き石」と呼ばれる伝説の石があります。加賀の前田利長が秀吉のために加賀から大量の石を運び込んだのですが、その中の一つに白い筋があり、まるで涙を流しているように見えるものがあったのです。この石が加賀に帰りたいと泣いた、あまりにも重いため人夫が泣いた、経費負担が大きすぎて利長が泣いたなど、「泣き石」と呼ばれた理由は諸説が語り継がれています。
この大仏殿跡付近には、往時の名残として「大仏前交番」、「京都大仏前郵便局」、「大仏発電所(関西電力)」の名前も散見されます。
大仏無き後も、その存在感を主張し続けているような気がします。