「御朝物(おあさもの)」をご存知でしょうか?蒸したもち米を少しつき、それを真ん中にして周りを塩味のつぶし餡で包んだぼた餅やおはぎのようなもので、野球ボールを少し大きくしたくらいのサイズです。この御朝物が約350年間、毎朝京都御所の決まった門から宮中に献上されていたのです。
応仁の乱と皇室
遡ること今から約550年前、京の約3分の2を焼き尽くした応仁の乱が終わると、その影響は皇室の衣食住にまで及びました。皇室を援助すべき室町幕府の力は、天皇の食事の確保もままならない状況に陥っていたのです。そんな中で、餅屋を創業したばかりだった川端道喜が、天皇のために毎朝「御朝物」と呼ばれる餅を献上するようになりました。川端道喜という人は何者なのでしょうか?
川端道喜とは
1503年、京都の鳥羽に渡辺進という武士がおり、嵯峨天皇の時代、大江山の鬼退治で有名な渡辺綱の流れを継ぐ嵯峨源氏の一族だったそうです。
渡辺進は出家した後に餅屋を創業し、その後、娘婿の渡辺五郎左衛門に後を継がせました。彼は、応仁の乱の影響で食べる物にもこと欠く皇室の窮状を知り、少しでもお役に立ちたいと、毎朝、「御朝物」を献上するようになったのです。この五郎左衛門は出家後、「道喜」を名乗り、初代の川端道喜となりました。
皇室は、これを大変喜び、御所に専用入り口「道喜門」まで用意されます。後柏原天皇は「御朝はまだか?」と、その到着を急かすほどだったとの逸話も伝えられています。
「御朝物」は、正親町天皇の時代まで続いたと言われていますが、後水尾天皇の頃になると実際に食べられることは無くなったそうです。
それは、織田信長が上洛し、財政難だった皇室を援助して回復させたからです。豊臣政権になってからも、秀吉が皇室をバックアップし、自らも天皇を後ろ盾に豊臣政権を揺るぎないものにします。
こうして皇室の財政も豊かになり、「御朝物」はその役目を終えますが、その後も天皇が朝食の前にご覧になるという一種の儀式に形を変えました。
献上されていた当時は、京都御所の西隣にあった店から現在の蛤御門を通り、正門である建礼門の東隣の門を通行して御所内に入ったと言われています。この行いは、ほどなく京の町中に知れ渡り、献上の様子を見に行く人が大勢いたと言われています。やがて、「御朝物」が通行する門は「道喜門」と呼ばれるようになり、現在でも京都御所に残っています。但し、開かずの門になっています。正確な場所は、烏丸通りにある蛤御門から京都御苑に入り、東へ真っすぐ進むと北側に御所の建礼門があります。更に、もう少し東へ進むと、閉じられた門が見えて来ます。それが「道喜門」です。
この「御朝物」ですが、在位中の天皇が崩御されたときは数日の間献上が中断され、新しい天皇が即位されると再び始まったそうです。
なお献上は、足利時代の後柏原天皇から始まり、都が東京へ遷都された1869年(明治2年)までの約350年間、明治天皇が東京へ移られる前日まで続いたそうです。
因みに現在の店名である「川端道喜」になったのは、1572年ごろのようで、店の傍に小川が流れていたことから川端という名が付いたとも言われています。
老舗和菓子店になった川端道喜
さて、この餅屋の川端道喜はその後どうなったのでしょうか?16世紀初頭に創業したと言われていますが、約500年が経った今も京都の老舗和菓子店として実在しています。
正式名称は「御粽司・川端道喜」で、初代から16代まで一度も暖簾を絶やすことなく、戦国時代から江戸時代にかけては皇室に餅などを納める店として知られるようになりました。また、ちまきの製造販売としても有名になり、江戸時代初期の4代目の頃からは粽司と呼ばれるようになりました。
明治に入り遷都された後も京都に留まったので、皇室との縁は切れてしまいますが、以後は主として茶道関係者等に、ちまきや和菓子を納入する店として商いを続けられています。現在の店は、京都市左京区下鴨にありますが、購入は完全予約制だそうです。その理由は、最高級の吉野本葛と京都・洛北の香りの良い笹の葉だけを使用し、保存料・添加物などは一切使用せず、創業約500年の間ほとんど変わらない、昔ながらの製法で細々と作り続けているからだそうです。また、京都・洛北の笹の葉が近年不作であることや、刈り手の不足により確保が困難なため、製造数も限られているそうです。皇室のお役に立ちたいという川端道喜の思いは今後も末永く受け継がれていくことでしょう。
戦国武将列伝・武将辞典
川端道喜・家の鏡
御粽司 川端道喜とわたし(川端知嘉子著・淡交社)
黒衣の宰相(火坂雅志著・朝日新聞出版)
足利将軍家と寺院(高島蓮著・吉川弘文館)
参照先
スィーツビレッジ