平安京最初の危機 平城太上天皇の変(薬子の変) 後編

前編では、兄 平城太上天皇と 弟 嵯峨天皇が対立し、武力蜂起寸前に至った経緯を解説しました。
嵯峨派が一歩早く行動し、平城派は機先を制されて敗れました。
私は変の推移から、京都盆地と奈良盆地には交通利便性の差があり、嵯峨派が先制できたことに一役買っていると感じました。
都が京都盆地に定着したのは、その「差」が関係しているかもしれません。

考えてみましょう。
もし平城太上天皇側が勝利したとして、平安京は廃止されたでしょうか?

私は最終的には、平安京、もしくは京都盆地のどこかに都が戻されただろうと考えています。
第一には、平城天皇が奈良を拠点にしたのは、あくまで成り行きだからです。
第二に、これが最大の要因と考えるのですが、奈良盆地と京都盆地では東国へのアクセスに差があることです。

奈良から直接東海地方へ向かうためには、陸路、幾つかの山を越える必要があります。もしくは、山城国へ出て、近江を経由するか。
現に、平城太上天皇は奈良盆地から東へ移動しようとして、逃げ切れず補足されました。

平城上皇一行は、輿を使って移動したそうです。
どこで、行く手を阻まれたのでしょうか。
大和国添上郡越田村(現奈良市北之庄町)というところ。
奈良市の南側、郡山市の近くです。

川口道という伊勢へと続くルートを使ったそうです。検索してみた所、大和から、伊賀の南部を経由して、伊勢国 川口関という関所へ続く道で、その先に聖武天皇が東国行幸の際に滞在した、川口(河口)頓宮という遺跡があることがわかりました。
ただの山道ではなく、整備された街道だったのでしょう。
ここを、最初の逃避先と考えた可能性もあります。

どちらであれ、一行は奈良盆地を離れるまえに補足されています。
丸一日かけて移動しながら、現在の奈良市の域内にいたのです。
遅い。
移動手段が輿だったので通常の歩行より遅くなったのでしょうが、戦時だという意識も欠けていたのかもしれません。

しかし、そこには大回りしてきた坂上田村麻呂が道を塞いでいました。
いくら平城太上天皇側が遅かったとは言え、田村麻呂が現在の京都、滋賀、三重県を大回りして、1日~1日半程度で駆け抜けた機動力は、たいしたものです。東北遠征で鍛え上げた騎兵たちが従っていたのでしょうか。
平城太上天皇も驚愕したかもしれません。敵方が後ろから追いかけてくるのならともかく、行く手に現れるとは。

近畿地方図
1.青色:山崎・淀と宇治の制圧 2.黒色:平城太上天皇一行の予想移動方向 3.赤色:坂上田村麻呂の推定進路

他愛もない想像ですが、平城側が先手を打ち東国へ移動を試みた場合、成功したでしょうか。

とはいえ相手は坂上田村麻呂、東北地方で素早い遊牧騎兵を相手に戦ってきた経験豊かな人物です。たとえ平城天皇がいち早く出発したとしても、移動速度が違いすぎて逃げる期間が伸びただけかもしれませんが…。

京都と奈良の勢力が対立した場合、間にある南山城地域と、そこを流れる幾つかの川を支配できるかどうかが争点になるでしょう。
実際の変でも、淀・山崎・宇治に軍勢を派遣した平安京の嵯峨帝陣営が優勢に立ちました。

したがって平城太上天皇側が勝つには、より早く軍隊を動員し、上記の場所を占拠する必要があります。
ですが、淀と山崎は平安京から川を下れば目と鼻の先なのに対し、南からだと、かつての巨椋池を越えねばなりません。

宇治は、京都と奈良からほぼ中間と言われる場所です。
近江へ向かう道を扼しており、宇治の争奪はポイントになり得たでしょう。
が、その宇治であっても、平城京からだと、平城山(ならやま)を越えて移動する必要がありますが、平安京からだとほぼ平地続き。宇治橋周辺を封鎖して、東への交通を遮断すればなんとか抑え込めそうです。
万が一、宇治から近江への通行を許したとしても、京都盆地から山科を越えて大津へ軍勢を派遣しておけば、先行して瀬田で待ち構えることも出来るでしょう。

平安京から山城地域と近江を抑えることはたやすく、平城京からだと宇治以南までは抑えられたとしても、近江まで先行することは難しい。
平城派が取り込もうとした3カ国のうち、越前と近江は活かせない。

坂上田村麻呂が平城太上天皇に協力するくらいの情勢変化があれば、ひっくり返せたかもしれませんが、言い換えれば、そのくらい難しかったとも言えます。

平安京(京都盆地)と平城京(奈良盆地)とでは、東国への移動の利便性に差が出ることが、いざ実際に軍隊を移動させる段になると、よりはっきり出るように思うのですが、いかがでしょうか。

天皇の行幸や軍隊の移動と同列で語ることはできませんが、桓武天皇が軍勢を東北地方に派遣していた頃(第一次、第二次遠征)、長岡京と前線の奥羽を使者が行き来しています。
片道で何日掛けていたと思いますか。
7日だったそうです。

7日で、現在の京都府から秋田県や宮城県辺りまで到達していたようです。
奥州の拠点であった宮城県の多賀城と、京都府長岡京市の間は約800km。
1日に100キロメートル以上を進んでいます。
状況に応じて馬や船を使い、リレー形式(伝馬)だったでしょうが、これはかなりの早さです。

ちなみに後世、関ケ原の戦いが始まったとき。
石田三成が打倒徳川の行動を起こし、伏見城に攻めかかります。この知らせが、現在の栃木県(下野)にいた徳川家康に届くまで5日かかっています。
京都から約500kmを5日です。
豊臣秀吉の天下統一後で、街道も整備されていたと思います。それと遜色ない速さで伝令が行き来していたのです。

それでも満足できる早さではなかったようです。
第一次東北遠征のとき、補給に失敗し、遠征軍を維持するのが難しくなりました。
軍勢を解散させるかどうかについて、桓武天皇と現地の将軍で意見が分かれました。
長岡京からは解散を止めさせる使者が急行しましたが、間に合いませんでした。
1週間でも、こういうズレが起こるのです。

もし、桓武天皇が奈良・平城京に都を置いたまま東北遠征を実施したとすれば、戦場との連絡には余分に半日~1日を要したと思われます。
これを許容できるでしょうか。

朝廷は関東から東北へと領域を広げつつありました。
その都を置くにあたって、京都盆地と奈良盆地どちらのほうが地の利を得ているか。

大和朝廷成立期には、奈良盆地は京都盆地に勝る長所を持っていたのでしょう。
それが何だったか、私もまだ思索しきれていないのですが、京都盆地と比べてもより防御に適した地形だとか、奈良に湖があった頃(古奈良湖)は地理条件が違うであるとか、何らかの長所が作用して、畿内を制圧できたのだろうと推測しています。

国土交通省近畿地方整備局 大和川河川事務所ホームページより

また、奈良は西の大阪湾へは比較的移動しやすく、瀬戸内海に国の比重が置かれていた時代には、それで十分だったのでしょう。
大和朝廷は奈良盆地だけなく、大阪府方面にも古墳など多くの遺跡を残しています。
また、平城太上天皇が奈良に入ったときも、摂津(大阪府北部)から水路を経て大和入りしていることから、大和~摂津の水運はこの時点でも生きていたと見られます。

しかし、関東地方~東北地方の重みが増すと、東日本への接続性を考慮する必要が出てきます。
桓武帝は、それらのことを考えていたという気がしてなりません。なぜなら、東北遠征と遷都事業が同時に行われていたからです。
戦いを構想する時点で、長岡京、および山城盆地が東北遠征の指揮所として、平城京より優ると見込んで、先に街道を整備していたのではないかと思います。1日に100km移動できるほどの交通網が、すぐに出来るとは考えにくいでしょう。

しかも、東北地方の戦いはまだ終わっていません。
東北への第四次遠征は嵯峨帝の時代に実施されます。
軍勢を送り込み、補給物資を届け、先述のように、前線の指揮官と連絡を取らねばなりません。

戦いに勝ったとしても、それから官吏を送り込み、統治機構を整え、反乱を防ぎ、開発を進め、税収を運んでくるという長期的な営みが待っています。(東国の人達からすれば、収奪ですが)
当時の税金は物納です。重量も体積も大きいでしょう。
商人も旅人も行き交うでしょう。

東国を開発すればするほど、都へ人と物が往来するようになります。
東北地方から遠ざかるのは合理的ではありません。
やはり、京都がまさるように思います。

といって、より東、たとえば濃尾平野や関東に都を移せばいいのかというと簡単ではありません。
西国への連絡が悪化し、そちらへの影響力が低下する恐れもあり、近畿地方の外へ都を移すための条件はまだ整ってはいなかったと考えます。
京都の優位性は江戸や大坂といった海沿いの平地が開発され、航海術が発達するまで続いていきます。

桓武天皇の遺言「平安京から都を遷すな」は、結果論とはいえ、回り回って不思議な重みで息子を阻んだと言えないでしょうか。

さて、平城太上天皇が降伏するとともに、愛妾であった藤原薬子は毒をあおって自死します。
太上天皇は位こそ剥奪されませんでしたが、政治的実権は失います。
平城帝の子たちにも、変の影響は重くのしかかりました。
平城天皇三男にして、皇太子となっていた高岳親王という人物がいました。
彼が皇位を継げるかどうかが、平城帝と嵯峨帝の対立点だったと言われることもあります。
親王は、叔父である嵯峨天皇によって太子の座を廃されます。

その後、出家して東大寺に入り最終的に真如と名乗ります。政治的に微妙な立場に置かれた親王にとって、仏門に入ることが安息を得られる道だったのでしょうか。
ただ、高岳親王改め真如法親王は、そこで終わる人ではありませんでした。

仏教を学びぬき極めようとします。
“苦行親王”と呼ばれるほど求道心に燃えた真如は、まずは高名な僧たちに教えを請います。弘法大師空海も、そのひとりでした。
真如は空海の十大弟子のひとりにも名を連ね、空海入寂の際にはその側にいたとか。

真如法親王像 鎌倉時代
 出典:ColBase

しかし飽き足らず、唐へ赴いて密教の奥義を極めたいと願い出ます。
真如法親王、この時すでに60歳の老境でした。
遣唐使は何年も派遣されておらず、商人に頼み込んで船に乗せてもらうなど数々の障害を乗り越えて、唐の長安へ入ります。
そこでも納得できる師に会うことができず、さらには天竺(印度)へ。
残念ながら、天竺を前にして消息を絶ちます。

消息不明になってから16年後に、唐の留学僧から朝廷に手紙が届きます。それによると真如親王は現在のマレー半島、羅越の国で78歳にて死去された、というのです。羅越国は現在のマレーシア南部だという説があります。

私はこの話を読んで驚きました。
政治的に失脚し、皇子の座を追われるというのは大変な痛手です。
そのまま失意のうちに亡くなることも多いだろうに、自分の人生を、ひたすら追求しつくした人物がいるとは。

高岳(真如)親王の生涯は昭和の小説家の心も刺激しました。
作家 澁澤龍彦は文芸春秋に、高岳親王を主人公にした小説「高岳親王航海記」を発表します。
澁澤は自由に想像して物語を書いたのでしょう。現実ではあり得なさそうな国や現象が登場しており、幻想的な作風です。
藤原薬子は怪しくも美しい、謎めいて魅力的な存在として描かれています。高岳親王は、その薬子の面影を追いかけるように天竺を目指すという話になっています。
最近、漫画にもなりました。

高丘親王航海記 I
(ビームコミックス) 近藤ようこ作画, 澁澤 龍彦原作)

高岳親王以外の平城天皇の子孫たちは、皇族の籍を離れて一般人になることを選びます。
皇位継承の資格を返上することで、今後反乱を起こすつもりがないと証しだてようとしたのです。
皇族は姓を名乗りません。姓を持つのは一般人です。
したがって皇籍を抜けること、臣籍に下ることは、同時に姓を名乗る事でもありました。

平城天皇の子孫たちは、のちに「在原(ありわら)」という姓を与えられました。

ああ、と思った方。
有名な在原業平は、平城天皇の孫に当たります。
もっとも、彼は高岳親王の子ではなく、甥ですので、もしも平城朝の世の中が来たとしても、皇位を継ぐ見込みは殆どなかったのですが。
であっても、祖父が政権争いに破れた、いわば敗残者の子孫であるという烙印はついて回った訳です。
どことなくアナーキーな印象のある業平ですが、その人格形成において、政治的「負け組」の一員だったことは影響したのでしょうか、どうでしょうか。

『在原業平と二条后』(月岡芳年画) 
Wikipedia / Wikimedia commons

話が、それました。
桓武天皇死後、京都盆地の平安京と奈良盆地の平城京に、二人の最高権力者が並びたち、対立しました。
京都に立った嵯峨天皇が勝利し、平安京が続いていきます。

しかし万が一、奈良陣営が勝利したとしても、奥羽遠征後には東国開発を進める時代が迫っており、交通の便に恵まれた京都の優位性は覆せなかったでしょう。
平城天皇が敗れ去ったのは、たんに個人の資質だけによるものではなく、時代の変化に応じて都がより適した地へ遷っていくこと、奈良が京都に都の座を譲ることを示唆していたように思えてならないのです。

参考図書/文献等
平城天皇(人物叢書) 春名宏昭著 吉川弘文館
蝦夷と東北戦争 (戦争の日本史)  鈴木拓也著 吉川弘文館
坂上田村麻呂(人物叢書)  高橋崇著 吉川弘文館
皇子たちの悲劇 皇位継承の日本古代史  倉本一宏著 角川選書
古代の都: なぜ都は動いたのか (シリーズ古代史をひらく)  吉村武彦, 吉川真司,川尻秋生 吉川弘文館
高丘親王航海記 I (ビームコミックス) 近藤ようこ作画, 澁澤 龍彦原作 KADOKAWA
聖武天皇の東国行幸ゆかりの地 ~伊勢・河口~
よかったらシェアしてね!

この記事を書いたライター

 
写真家。
京都の風景と祭事を中心に、その伝統と文化を捉えるべく撮影している。
やすらい祭の学区に生まれ、葵祭の学区に育つ。
いちど京都を出たことで地元の魅力に目覚め、友人に各地の名所やそれにまつわる歴史、逸話を紹介しているうち、必要にかられて写真の撮影を始める。
SNSなどで公開していた作品が出版社などの目に止まり、書籍や観光誌の写真担当に起用されることになる。
最近は写真撮影に加えて、撮影技法や京都の歴史などに関する講演会やコラム提供も行っている。

主な実績
京都観光Navi(京都市観光協会公式HP) 「京都四大行事」コーナー ほか
しかけにときめく「京都名庭園」(著者 烏賀陽百合 誠文堂新光社)
しかけに感動する「京都名庭園」(同上)
いちどは行ってみたい京都「絶景庭園」(著者 烏賀陽百合 光文社知恵の森文庫)
阪急電鉄 車内紙「TOKK」2018年11月15日号 表紙 他
京都の中のドイツ 青地伯水編 春風社
ほか、雑誌、書籍、ホームページへの写真提供多数。

|写真家|祇園祭/桜/能/光秀/信長/歴史