七夕の七遊/祇園祭の甘酸っぱい思い出

7月はじめの行事と言えば7月7日、五節句の一つ、七夕です。七夕は中国の乞巧奠(きっこうでん)という七夕の行事が日本に伝わり、奈良時代以降、日本の伝説や信仰と結びつき、宮中の節会(せちえ)として取り入れられたものです。平安時代には宮中だけでなく貴族の家でも行なわれました。現代では笹飾りに願い事を書くイベントになっていますが、そもそもは技芸の上達を祈念する行事であり、また七夕と貝合わせの遊びには関わりがあります。

織姫牽牛

昭和6年発行、有職研究者の有馬敏四郎著「五節句の話」の「七夕」の項によりますと7月7日に「七遊」という行事があったと書かれており、数ページにわたり紹介しています。中でも朝廷の女官達の日記「御湯殿上日記」(天正18年1590年)には、鞠、歌、碁、花、香、楊弓とともに貝覆いが記されており、七夕の日の遊びに貝覆いがあったことがわかります。貝覆いというのは、現代の私たちが「貝合わせ」と呼んでいる遊びのことで、蛤の貝殻を出貝と地貝に分け、貝殻の外側の柄をたよりに元の相方を探す遊びのことです。

宮中貝覆い再現

実は私たちが「貝合わせ」と呼んでいる遊びの本来の名前は「貝覆い」のことで、特に平安時代には「貝合わせ」は別の遊びを指す言葉でした。私どもがゲームで使う蛤貝殻のセットを「貝覆い」飾り物や香合として使う1個、合わさった2枚組を「貝合わせ」として販売しているのは蛤貝殻をめぐる歴史的な背景をお伝えする為です。「貝合わせ」は平安時代に盛んに行なわれた「歌合わせ」という遊びのなかの「物合わせ」の一つで、造り物の洲浜台の上に様々な貝を散らし和歌を添え、その台も含めた善し悪しを競う遊びです。「貝合わせ」は公家の時代から武士の時代に変わる中で次第に廃れてゆきましたが「貝覆い」の遊びは公家だけでなく武士にも好まれたようで、後に貝覆いのセットを納めた「貝桶」は大名家の婚礼道具にもなり「貝覆い」は王朝文化の名残で貝を使った遊びですし、動作としても貝を合わせる動きがありますから名前の混同が起こり「貝合わせ」とも呼ばれるようになったのです。

宮中貝覆い

さて、七夕は五節句の一つですが、江戸時代には幕府によって五節句は「式日」として定められていました。「式日」というのは儀式や宴を行なう日、また今で言う祝日のことです。現代において祝日になっている五節句と言えば「端午の節句」こどもの日のみですが江戸時代には七夕も祝日でした。宮中では祝日の日の雅な遊びの一つに貝覆いがあったのです。蛤と言いますと春、雛祭のイメージが強いですが夏に貝の遊びをするというのはとても合っていると思います。とも藤では貝合わせ遊びの体験会を行っていますが、遊びの中で蛤貝殻がぴたっと合うのはとても気持ちが良く、また貝殻のひんやりとした感触は夏の遊びとしても涼しげです。

 

そして京都の7月と言いますとまずは祇園祭が中心となってきますね。私は幼少期、呉服を生業にしている父の実家で暮らしており祇園祭の山鉾町でしたのでお祭りの思い出が沢山あります。その中でもほんの少し甘酸っぱい思い出をお話ししましょう。

幼かった私はとてもおしゃべりな女の子だったようで、ある時、通園していた保育園の連絡帳を見つけて読みましたら「ともちゃんはいつも先生に色々なことを話して聞かせてくれます。聞いてくれる先生を見つけるのがとても上手く、朝の時間にともちゃんにつかまると少し大変です。」と書かれていました。これはまさに私のことで、もしかすると今もあまり変わっていないかもしれません。聞いてくれそうな先生を見つけるのがとても上手いのは、大人に囲まれて暮らしていたからで、構ってもらえそうで手の空いていそうな大人を見つけるのは得意でした。そんな、ともちゃんですが、7月に入りますと山鉾町の大人たちには振られっぱなし、手の空いている人を捜しても容易に見つかりません。大人達、特に男性陣は仕事もして、お祭りの準備もしていますから大忙しです。誰もかれもお祭りに夢中で女子供に構っている暇はありません。

ともちゃんは弟と子守りをしてくれている祖母の叔母のばあちゃんと3人で他の町内の山が建つのを見て回ったりして過ごします。大人に近づいてはいけない感じがしていました。いつの年か、それが誰であったのか覚えていませんが記憶に残る祇園祭の思い出があります。ある、お祭りの夏の日に私は浴衣を着て山の側に立っていました。「どうしたんや、顔がまっかやで」誰か浴衣を着た大人の男の人の声がして、大きな手で私を触ります。その後、その人は水で濡らして固くしぼった手ぬぐいで汗びっしょりの私の顔や首を丁寧に拭って、着崩れた浴衣を手際よく直し「金魚さんみたいにせなな」と言いながら兵児帯を結び直してくれます。固くしぼった手ぬぐいがとても気持ちが良く、身体がみるみるとひんやりして、しわしわの浴衣が調うさっぱり感と構ってもらった嬉しさで胸がいっぱいになります。たったそれだけのことですが、ツンデレ効果とでも言いましょうか、よほど嬉しかったのでしょう、今も祇園祭の浴衣姿の男の方を見ると懐かしい憧れのような甘酸っぱい気持ちが思いがこみ上げてきます。

そんな私ですが、この数年の7月は雛人形の三人官女を使った七夕の貝覆いの飾りをしたり祇園、八坂神社の神紋を描いた貝合わせを御所人形とともに置いたりして蛤の貝殻屋さんらしさを意識しています。

祇園祭の貝合わせ

「貝合わせ」も「貝覆い」も平安時代の貴族の遊びですから、乞巧奠の世界観や雅な雰囲気を取り入れ、そして技芸上達を願うお祭りですので、持参している和楽器、琴や三味線を出して並べ、耳盥に梶の葉を浮かべます。

耳盥梶の葉

梶の葉は「葉書」の言葉の由来にもなった葉で古くはこの葉に和歌を書いたそうです。耳盥はお歯黒の道具で貝桶と同様に昔の婚礼道具です。本来は耳盥に似た盥で左右に2本づつの取手がついた「角盥」に梶の葉を浮かべます。盥に星を映して眺めた平安時代の人々へ思いを馳せ、部屋を飾ります。私も夫もアンティークのもの、骨董品を眺めるのが好きでそれらを暮らしの歳時記に使いたいと思っています。私どもが7月の貝合わせとしてご提案しているのは笹飾りに角盥と梶の葉などを描いたもので乞巧奠のありさまを感じ取れるものとなっています。

梶の葉

私のようにずっと京都に暮らしていると、通りや辻、小さな路地や神社の境内の片隅に小さな思い出がいくつも残っており、若い頃はそれがいつまでもついてくるもののように思えて嫌な気になることもありましたが、次第に良かったことしか思い出せなくなり懐かしいだけの場所になってゆきます。どこか別の町で暮らしても京都ほど自分の町だと思えるところは無いでしょう。思い出のその場所に行くと、そこに幼い日の自分がまだ離れがたく居るような気がします。そして周辺に昔のままの箇所を探したくなるので古い町並みはやはり残っていて欲しいですが、目まぐるしい時代の移り変わりの中で発展し、新しい姿に変容する京都もまた魅力的で嬉しく、ずっと同じ町に暮らす楽しみとなっています。

よかったらシェアしてね!

この記事を書いたライター

京都市中京区の呉服店の長女として生まれ、生粋の京都人である祖母や祖母の叔母の影響をうけながら育つ。通園していた保育園が浄土宗系のお寺であったことから幼少期に法然上人の生涯を絵本などで学び始め、平安時代後期の歴史、文化に強い関心を抱くようになる。その後、浄土宗系の女子中学高等学校へ進学。2003年に画家の佐藤潤と結婚。動植物の保護、日本文化の発信を共に行なってきた。和の伝統文化にも親しみ長唄の稽古を続けており、歌舞伎などの観劇、寺社への参拝、院政期の歴史考察などを趣味にしていたが、2017年、日向産の蛤の貝殻と出会い、貝合わせと貝覆いの魅力を伝える活動を始める。国産蛤の?殻の仕?れ、洗浄、蛤の?殻を使?した?芸品の企画販売、蛤の?殻の卸、?売、?合わせ(?覆い)遊びの普及を?なっている。

|とも藤 代表|貝合わせ/貝覆い/京文化