1 貨物電車
戦時中、ガソリンが不足してくるとトラック輸送もままならぬようになってきました。そこで市電に貨物電車が登場します。古い電車を改造したのですが、中には未舗装の道路に水を撒くため電車に水タンクを載せていた散水電車を改造した車両もありました。具体的には客室や水タンクなどを取っ払って、車体の真ん中にやぐらとその上に集電装置を取り付け、前後の運転装置(コントローラーと手動ブレーキ)だけを残すというたいへんシンプルなもので、合計8両用意されました。
この電車は市内のどこでも走っていたわけではありません。昭和19(1944)年9月以降、主に七条の中央市場から伏見線の七瀬川を渡った棒鼻近くの深草集荷場と現在の高野の交差点近くにあった下鴨集荷場まで、配給の食料品などを運ぶのに活躍しました。中央市場は七条千本の北側に引込線が設けられ、七条通には西向きに出る構造でした。というのは市電七条線は国鉄山陰線の下をくぐるアンダークロスだったので結構な勾配が生じ、物資を満載した小さな電車を東向きに走らせると上り勾配が厳しかったのでしょう。そこで、貨物電車は中央市場から西に向いて出発し、西大路七条へ。そこから深草に向かう電車は左折して、西大路九条~大石橋~深草集荷場と走ったようです。一方、高野に向かう電車は右折して西大路通をひたすら北上し、金閣寺から北大路通に入って東進して高野まで走りました。そして帰りは東山通を南進し、東山七条を右折して中央市場に戻りました。それぞれ1日数便走っていたようです。
昭和24(1949)年に貨物電車の営業は終わります。したがって貨物電車も順次廃車になり、残った電車は時々花電車として走りましたが、昭和48(1973)年にすべてその姿は見られなくなりました。
2 ふん尿電車
現在、地下鉄東西線の一部の電車は浜大津まで直通で行きますが、あの車両は京阪電車です。ところが戦中戦後のある時期、京都の市電が大津まで走って行ったことがあるのです。もうひとつわけのわからないことを重ねますが、東山仁王門の交差点の東側、疏水の角あたりが少し広いですが、あそこが大津への電車の「乗り場」だったのです。
実はその電車の乗客は人ではなく何と「ふん尿」でした。大都市のふん尿処理は昔も今も都市行政の大きな課題です。昔は近郊の農家が「肥(こえ)汲み」と称して都市部の民家のふん尿を集めて持ち返り、畑に肥料として撒くというしくみが出来上がっていました。そしてそこでできた農作物を「肥」のお礼としてまた民家に届けていたのですが、戦中戦後は農地が荒れるとともに農家の男性も戦地に赴くなどして人手が不足し、先のしくみが上手く回らなくなりつつありました。一方で食糧増産のためには肥料となるふん尿は貴重なものでした。そこで電車に載せて大津まで運び周辺の畑で使用したのです。
この業務のために改造された電車が写真の540号車でした。さすがに当時の写真はなく、断片的な記録しかないのですが、車内は板を貼って運転席を分離し、客席を取払って3段の棚を設け、そこに肥を入れた桶を約50個載せたようです。またタンクも載せたという話もありますが、具体的には分かりません。なおこの写真は戦後、元に戻された姿ですが、乗客は元のふん尿電車とは知る由もなかったでしょう。それにしてもふん尿を入れた桶を、フタがあるとはいえ3段も積むのは大変だったでしょうね。
東山仁王門を出発し、東山三条に設けられた連絡線を通って京津線に入り、蹴上から山科へ、さらに浜大津で折り返して石山の手前の粟津まで15.3km走り、大津近郊の農家に肥を引き渡しました。帰りはやはり野菜を載せて帰ってきたそうです。これは昭和20年4月から21年8月まで続きました。もっとも粟津ではどのような体制で近郊の農家に配られたのかなどは分かりません。
市電の車両が九条山と逢坂山のあの勾配を、ふん尿を満載して上ったのです。モーターが焼けないようにと四宮で長時間停車してモータ―を冷ましたとか。京阪側も28号という貨物電車1両をこの業務に充てました。運行は京阪の手によって行われ、市電が毎日2往復、京阪が1往復したようですので、電車3台分のふん尿を毎日運んだのです。当然揺れるでしょうから、車内は結構大変なことになっていたのでは想像してしまいます。
ちなみに東京や大阪はもっと大量のふん尿が出ますから、東武電車や西武電車、南海電車や近鉄電車など都心と郊外を結ぶ私鉄は専用の車両を用意してかなり広域に運んだようです。貨車の荷台に木製のタンク、つまり大きな風呂おけのようなものを載せた専用の車両もありました。こちらも途中で漏れたりあふれたりしないのかな、入れるときは上からジャーと入れて、下ろすときは下の方に蛇口でもあったのかななどと考えてしまいますが、考えるだけで匂ってくるような気がします。
3 水耕栽培と江若鉄道
ところが戦後、我が国を占領したアメリカ軍は、日本の農業がふん尿を肥料にしているのを見て驚愕します。肥樽を積んだ荷車が通るのすら、匂いも含めて嫌ったようです。彼らは生野菜を食べますから、人糞のかかった野菜など口にするはずはなく、本国から飛行機で運んだということもしたようですが、どうしても品質は低下します。そこで水耕栽培場を作るのです。それが西日本では大津だったのです。「伝えたい京都」のエリアから少し離れますがお話を続けます。現在の大津市唐崎付近に陸上自衛隊の基地がありますが、あそこも戦時中は軍の施設でしたのでそこを接収し、わずか4か月で水耕栽培場を作ります。昭和22(1947)年の春から稼働させ、実際に運営したのは現在の「タキイ種苗」でした。ほんの少し傾斜のある大きなプール状のものに小石を敷詰め、化学肥料を混ぜた水(比良水系の水をポンプアップ)を流してレタスやトマト、小松菜などを年間栽培しました。
昭和44(1969)年まで浜大津~今津間に江若鉄道というローカル鉄道が走っていましたが、先の水耕栽培場へは途中から引込線を敷きます。場内には製氷工場も作られ、その氷を積んだ冷蔵貨車で全国の米軍キャンプに生鮮野菜を配送したということですから、そのシステムのすごさに今度は日本側が驚きます。貨車に野菜を積むときも、当時は荷物を1箱ずつ持って載せるのが当たりまえでしたが、米軍はローラーコンベアを持込み、野菜の入った箱を流すように載せていたようです。ちなみに浜大津と国鉄膳所駅の間は京阪電車の線路にもう1本レールを敷いて狭軌として貨物列車を走らせ、膳所から各地の米軍キャンプに発送されたのです。
ふん尿というちょっと尾籠な話でしたが、ほぼ同じ時期に、京都から大津にふん尿を運んで農業に活かし、米軍はそれを嫌って水耕栽培を大規模に展開しました。この違いは当時の日米の違いを象徴しています。そして最初の貨物電車ともども戦中戦後の「食べるもの」「出したもの」の輸送にもそれぞれ鉄道の活躍があったのです。
《主な参考文献》さよなら京都市電 京都市交通局
こんにちは京都市電 京都市文化財ブックス