大きく変わった二条駅 【京都の鉄道よもやま話】

京都市内の鉄道の駅で、駅とその周辺の姿が共にもっとも大きく変わったのが二条駅ではないでしょうか。今回はその二条駅のお話をしましょう。

 

①京都鉄道の二条駅

現在はJR西日本の二条駅ですが、会社としては3代目なのです。最初に二条駅が開業したのは明治30(1897)年2月でした。京都鉄道という民間の鉄道会社が大宮~嵯峨間を開業した時にできた駅です。その後明治37(1904)年に、中高年の人はご存知の、ひのきづくり入母屋瓦屋根の立派な駅舎が完成したのです。京都鉄道の田中源太郎社長は当初レンガ造りの駅を考えたようですが、二条城に近いこともあって和風の駅にしたそうです。この駅舎は時々日本最古の駅舎と紹介されていましたが、それは怪しいようです。日本鉄道(のちの東北本線)の宇都宮駅の駅舎を模して建築されたと言われています。2階は京都鉄道の本社で、1階には明治天皇が二条離宮への行幸の際に休憩した貴賓室もありました。1階中央部のいわゆるコンコースにはケヤキの3本の柱が並び、荘厳な感じがしました。ここを通って山陰線の「汽車」に乗ったのです。
なお二条駅から市内中心部へのアクセスとして、明治35(1902)年には京都電気鉄道が押小路通に城南線を敷いて小さな電車で堀川押小路との間を結びました。ちなみにこの線は明治45(大正元・1912)年には御池通を通って堀川御池と結ぶルートに変更されていますが、大正7(1918)年に廃止されました。

明治37年から千本通りに面して堂々と建っていた二条駅

②国鉄二条駅

明治40(1907)年に主要な幹線鉄道は国有化されます。京都鉄道も買収され、国鉄山陰本線の駅となります。二条駅にまつわる多くの物語は、この国鉄時代が舞台になります。
明治45(大正元・1912)年に千本通から壬生車庫まで(その後四条大宮まで)市電が開業すると、駅前に停留所ができ汽車から市電への接続が図られ、いわゆるターミナル機能がアップします。二条駅はお分かりのように丹波・丹後をはじめ山陰方面からの入口にあたります。戦前までの鉄道は一部の大都市周辺を除いて通勤通学輸送というより物資輸送が大きな役割でした。丹波地方からの木材や薪炭は、江戸時代、角倉了以が開削した保津川を経て嵐山から西高瀬川を通って市内中心部に運び込まれました。そのため千本三条付近には材木問屋などが多く集まるのですが、そのすぐ近くに鉄道が通り二条駅が設けられると、それらの輸送も水運から鉄道にシフトします。今は見られませんが大きな食料倉庫などが軒を連ねたのも二条駅周辺でした。社会科の授業で大正期の「米騒動」の学習をされたと思いますが、京都ではこの二条駅周辺の食糧倉庫が襲われたのです。
駅前には旅館や食堂、荷物の扱い所も並んでいました。宅配便のない時代です。「定便(じょうびん)さん」と言われた個人の運送屋さんが、汽車に乗って丹後ちりめんなどを運んできて市中の問屋さんに納めたり、丹波・丹後地方で必要なものを買って持ち帰ったりしていました。したがってそんな人たちが泊まる旅館や荷物を託す取次所が必要だったのです。
戦後、山陰線に準急や急行のディーゼルカーが走るようになると、舞鶴や宮津方面から水産物を運び込んで京の町で売りさばく行商のおばさんにとっても商いの起点となる駅でした。これは昭和43(1968)年のダイヤですが、東舞鶴(6:52)→二条(8:52)の急行「丹後1号」や宮津(7:15)→二条(9:38)の急行「丹後2号」などは山盛りの水産物を持ったおばさんたちには重要な足だったのです。
ところが昭和47(1972)年に市電・千本大宮線がなくなり駅前に市電が走らなくなったころから様相が変わります。先のような行商列車というよりも急速に宅地化が進む亀岡方面からの通勤通学客が増えます。さらに言えば二条駅は山陰方面から帰ってきたときに降りる駅という印象が強く、行くときは始発の京都駅から乗ったという人も少なくないのではないでしょうか。

北側から見た二条駅
東西に貨物の線路もあった(昭和51年)

また二条駅は梅小路駅と並んで貨物の取り扱い駅でもあり、大きな駅舎を挟んで南北に貨物のホームがあり、毎日たくさんの貨車が発着していました。梅小路発二条行きの貨物列車が設定されており、到着後は花園方に引き上げて入換え作業が続きました。そこで今では考えられませんが、旧二条通の踏切が長時間通れなくなります。そのため踏切の傍らに古レールで作られた跨線橋があり、人だけはそれを利用して横断していました。しかしこれらの貨物の取り扱いは昭和57(1982)年に廃止になり、一部の石油専用の貨物だけを取り扱うようになりました。三条通の南側まで引込線があり、そこで石油を下ろしてタンクに貯蔵、市内各所にタンクローリーで配達していたのです。また使われなくなった貨物ホームの線路には、これまた使われなくなった鉄道車両たちが解体を待つために留置されることもありました。ときには山陽本線などで華々しく活躍していた寝台特急電車が留置されていたこともあり、何とも言えないさみしい気持ちになりました。

2番線から亀岡方面に向かうディーゼルカー(昭和47年)

ところで現在の二条自動車教習所の場所には、昭和30年代まで「京阪練炭」という会社がありました。ここでは石炭を粉状にし、石油精製で出るピッチと呼ばれるタール状のものを混ぜて、国鉄の蒸気機関車で使う豆炭を作っていました。これは燃焼効率がよいので優等列車を引っ張る機関車に使われていたようで、これらの原料や製品を運ぶ貨車も二条駅を通じて出入りしていたのです。

 

③JR二条駅

昭和62(1987)年、国鉄の分割民営化により二条駅もJR西日本の駅になりますが、(貨物の取り扱いはJR貨物)例の木造の駅舎はなお残ります。

JRになってからの二条駅

一方でその頃から将来的には複線電化を目指す山陰線の高架工事の話が具体化していきます。それまでの山陰線は地平を走っていたのでほとんどの道路には踏切があって、市内の東西交通の渋滞の原因でもあったのです。鉄道の高架工事はどこでもそうですが、運転をやめて工事をするわけにはいきません。二条駅の周辺は従来の山陰線の線路の東側に高架線を作ることになりました。するとあの駅舎の位置に通すことになるため、駅舎を解体しなければなりませんでした。しかし明治37年からの立派な駅舎を壊すのは心もとないということで、建築関係の団体からも保存の声が上がり、なんと曳家で約300トンの駅舎を移動させることにしたのです。曳家というのは建物全体をジャッキで持ちあげて、レールに乗せて水平移動させるものです。平成2年10月に2日間をかけて東側(千本通側)に15m移動させました。おかげでその後も二条駅舎として使用が続けられたのです。
平成8(1996)年3月、二条駅を含む花園までが単線で高架化されます。高架の駅はその1階部分が改札口や切符売場になりますから、移動させた駅舎も東側の駅前広場の整理にともなって不要になります。そこでまたしても解体の危機に直面するのですが、京都市の指定有形文化財に指定されたこともあって、今度は当時の梅小路蒸気機関車館に移築されることになりました。木造建築ですから解体して運び、再度組み立てて壁などを仕上げたのですが、移築場所の関係で左右の長さが柱間1つ分ずつ縮められています。平成9年に移築完成し同館の玄関や展示施設として活用されます。そしてそのまま京都鉄道博物館になりましたので、今は展示室の一部やミュージアムショップとして活用されています。

梅小路に移築されてからの二条駅舎
左右方向が少し短くなっている

一方で現在の二条駅が出現します。高架上に島式ホーム1本だけの駅となり、比叡山千日回峰の阿闍梨さんの笠のような大きな屋根が付きました。この斬新なデザインにブルネル賞やグッドデザイン賞も受賞しています。ところで本線が高架になると地平の貨物は取り扱えませんから、先述の二条駅着の石油輸送も廃止になりました。ちなみに今のように複線電化が完成したのは平成22(2010)年です。

そして二条駅周辺は京都の西の玄関口として再開発が進められます。それまで千本通側は、駅舎を挟んで南北ともに貨物ホームや運送会社・倉庫があって無粋な金網が続いていましたが、今は北から歯科医療専門学校やJR系列のビルやマンション、京都府医師会館、佛教大学・立命館大学のキャンパスが並んでいます。北側は御池通の整備貫通と地下鉄東西線の開業(平成9年)が実現しました。さらに貨物ヤードが広がっていた西側にも駅前広場が整備されました。北側には大きなマンション、南側には映画館や多くのお店が入るBiVi二条の商業ビルも建ちました。あの地で蒸気機関車やディーゼル機関車が行ったり来たりして貨車の入換え作業をしていたとは今では誰もが想像できないでしょう。筆者が中学3年生の時に、福知山に向かう蒸気機関車の貨物列車をホームで眺めていたら、「ぼん、乗るか」と機関士さんに声をかけてもらってSLの運転台に入れてもらったのもそのあたりでした。当時は駅の西側(いわゆる駅裏)に行くには三条通からか旧二条通から二条自動車教習所の周りをぐるっと回らねば行けませんでしたから本当に隔世の感です。今はフラットな三条通ですが、高架前は山陰線をアンダーパスでくぐっていたことも忘れてしまっています。
最後にもうひとつ加えておきます。それこそ今の西のロータリーあたりになるのでしょうか。整備工事中の平成9年、かつての京都鉄道時代の転車台(蒸気機関車を回転させる装置)跡の丸いレンガ遺構が出てきたのです。鎌倉・室町期の遺構ではありませんが、我々「テツ」には貴重な発見でした。

西側の駅前広場付近に出土した京都鉄道時代の転車台の跡
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この記事を書いたライター

 
昭和30年京都市生まれ
京都市総合教育センター研究課参与
鉄道友の会京都支部副支部長・事務局長

子どもの頃から鉄道が大好き。
もともと中学校社会科教員ということもあり鉄道を切り口にした地域史や鉄道文化を広めたいと思い、市民向けの講演などにも取り組んでいる。
 
|鉄道友の会京都支部副支部長・事務局長|京都市電/嵐電/京阪電車/鉄道/祇園祭