1年中見れる祇園祭の山鉾があった!?

本能寺の変で織田信長が亡くなり、信長の長男・信忠も明智光秀に二条御所(信長の二条城)を攻められて自刃。1587年、豊臣秀吉は亡くなった信長と信忠の菩提を弔うために、二条御所跡に「大雲院」を創建します。
この寺は正親町天皇の勅命を受けて、貞安という住職が開山します。寺院の名前も、信忠の法名から大雲院と名付けられました。但し、同年中に秀吉が進める京都の都市計画のために、二条御所跡から四条寺町を少し南に下がった場所に移されます。四条に移った大雲院は、後陽成天皇により勅願所ともなったので、秀吉は大層喜びました。

石川五右衛門の墓

この寺には天下の大泥棒こと石川五右衛門も弔われています。秀吉が大号令を発して、この大泥棒を捕まえたのが事の始まりです。捕らえられた五右衛門が、処刑前に京の市中を引き回され、大雲院の前に差し掛かったとき、住職の貞安が声を掛けました。
「おまえも成仏したいであろうな」五右衛門は鋭い目で貞安を見上げていました。
「これまでの悪行三昧を悔いているのであれば、わしが拝んでやろう」と声を掛けると、五右衛門は弱々しく頷いたのでした。
こうして貞安が五右衛門に引導を渡した縁で、大雲院に五右衛門の墓が建てられました。

秀吉自慢の「千鳥の香炉」

天下の大泥棒と呼ばれた石川五右衛門は、どうして捕まったのでしょうか? 気になりますよね。 彼は秀吉の時代に実在した人物で、秀吉が建てた大仏殿の門前にあった大仏餅屋を隠れ家にしていたそうです。そこには鴨川への抜け道がありました。彼が盗みに入るのは、権力者や金持ちの屋敷ばかりでした。秀吉政権を嫌う世の風潮もあって、京の町中の人たちは五右衛門を英雄視し、彼の人気はどんどん高まっていきました。この状況を秀吉は気に入りません。どうにかして捕まえてやろうと考え、伏見城の自室の枕元にわざと高価な香炉を置いておきます。香炉の噂を耳にした五右衛門は夜中に秀吉の部屋へやって来ます。すると部屋の前の廊下は鴬張りになっており、キュッキュッと音が鳴って気づかれ捕まってしまうのでした。 秀吉が置いた自慢の「千鳥の香炉」が鳴いて知らせたという逸話もあります。

「五右衛門風呂」の釜

仕掛けにまんまとはまった彼は、三条河原で釜ゆでの刑に処せられます。これが「五右衛門風呂」の名前の由来です。処刑に使われた釜は、その後、釜が渕(鴨川の七条大橋辺り)と呼ばれる場所に流れ着いたそうです。江戸時代以降も法務局関係の建物内に保管され、後に名古屋刑務所に移されたそうですが、戦後の混乱で行方不明になりました。
彼の辞世の句は、「石川や浜の真砂は尽くるとも世に盗人の種は尽くまじく」(自分が死んでも、この世から泥棒はなくならないだろう)でした。
処刑された日は12月12日で、今でもお札にその日付を書いて上下逆さまにして貼り付けておくと、泥棒に入られないというおまじないが京都には残っているようです。また彼の墓の欠片を持っていると、ご利益があるとも言われ、墓石には至る所に削られた跡があります。

大倉喜八郎が建てた祇園閣

秀吉が建てた大雲院は、その後、度々火災で焼失しますが、昭和になってからは周囲が繁華街となり騒がしくなったことと、1972年(昭和47年)に髙島屋京都店の増床の話もあって、東山にあった大倉喜八郎別邸「真葛荘」跡に再移築(昭和48年落成)されます。場所は円山公園音楽堂の前になります。

現在の大雲院

この大倉喜八郎というのは、ホテル大倉の創始者であり、渋沢栄一と共に鹿鳴館や帝国ホテルなどを建てた人物です。
彼は昭和3年、別邸の敷地内に祇園祭の山鉾の形をした「祇園閣」を建てます。

祇園閣

夏だけでなく年中いつでも祇園祭の山鉾を見ることができるように、という思いで建てたのです。入口には西園寺公望による扁額もあります。

祇園閣の扁額 (西園寺公望)

また、遠くからも「祇園閣」が見えるようにと建物を高くしたようで、高さ36メートル、3階建てとなっています。
望楼の頂部には鶴がいるのですが、これは喜八郎の幼名が鶴吉であり、雅号が鶴彦、晩年は鶴翁と名乗ったことに由来しています。

望楼の頂部の鶴

現在は国の有形文化財となっていて、望楼の展望台は京都市内が一望できる最高のスポットとなっていますが、残念ながら通常非公開となっています。また、屋根が銅板で葺いてあるので、幻の銅閣寺だと言う人もいるそうです。
因みに設計は伊東忠太であり、「祇園閣」の内部は、中国・敦煌の壁画の模写で、天井の十二支の装飾や階段部の鬼(魑魅魍魎)の照明など、独特のデザインが施されています。
伊東忠太は明治から昭和期の建築家であり、帝国大学工科大学(現在の東京大学工学部)を卒業した建築の第一人者です。彼は、それまでの日本建築を本格的に見直しました。代表的な建築物には、豊国廟、平安神宮、橿原神宮、明治神宮、築地本願寺などがあります。

豊臣秀次の供養塔

大雲院に戻りますが、2014年に四条河原町周辺の発掘調査が行われた際、四条寺町にあった大雲院跡も調査対象になりました。すると敷地跡から豊臣秀次の供養塔の一部とみられる石材が見つかったのです。秀吉に謀反の疑いで切腹に追い込まれ、三条河原で処刑後、晒し首にされた秀次の供養塔が出てきたのです。その他にも側室らを供養したとする文献もあったそうです。秀吉にも後ろめたい気持ちがあって、密かに秀次の供養をしたのではないかという説の裏付けになりました。
結果的に大雲院と祇園閣が同じ敷地になったわけですが、織田信長・信忠親子と石川五右衛門の三人も、この祇園閣を見上げているのでしょうか。

参考文献
大盗賊石川五右衛門 長尾剛著・汐文社
真説石川五右衛 檀一雄著・六興出版
明治を食いつくした男 大倉喜八郎 岡田和裕著・産経新聞出版
怪物商人 江上剛著・PHP研究所
大倉喜八郎の豪快なる生涯 砂川幸雄著・草思社
洛東柳池山大雲院祇園閣 井筒肇編 柳池山大雲院
よかったらシェアしてね!

この記事を書いたライター

京都市左京区出身。
歴史に興味をもち、関西大学文学部史学科を卒業。
KBS京都(京都放送)に入社、現在は常勤監査役。
京都の史跡を多くの方に伝えたくて、京都史跡ガイドボランティア協会員として活動中。

|KBS京都 常勤監査役|史跡/散策/寺社