紫式部と小野篁の墓が隣同士にある謎

紫式部と小野篁の墓が隣同士で存在しているのをご存知でしょうか。しかもこの墓所には、二人の墓だけがあるのです。

墓所入口
二人の墓

紫式部の父親は藤原為時で、幼いときに母を亡くし、その後は為時の手で育てられます。為時は花山天皇に漢学などを教えていた知識人で、娘の式部にも幼いころから漢学や和歌などを教えていました。彼女は、兄の藤原惟規よりも先に漢文を覚えてしまうほど、大変優秀だったようです。
式部が結婚したのは当時としては遅く、26歳のときでした。相手の藤原宣孝は46歳で、20もの歳の差がありました。結婚後すぐに一女(賢子)をもうけますが、その2年後に夫が亡くなったあと、「源氏物語」を書き始めたと言われています。
彼女は1007年頃、一条天皇の中宮彰子(藤原道長の長女)に、女房(宮仕え)兼家庭教師として仕え、少なくとも1012年頃まで「源氏物語」を書き続けていたようです。

源氏物語と節分で有名な廬山寺

紫式部の住まいは廬山寺にあったと言われ、ここで娘の賢子を育てながら、「源氏物語」や、「紫式部日記」、「紫式部集」など数々の名作を執筆しました。
廬山寺は、京都では節分で有名なお寺ですが、最初は與願金剛院という名で船岡山の麓に創建されました。後に現在の名前に変更、秀吉の都市計画(町割り)で京都御所の東に移転されました。
毎年節分の日に京都の風物詩となっている節分会では、3匹の鬼による「鬼踊り」が行われます。舞台に現れた鬼が、松明や武器を持って暴れ回り、やがて本堂の中へ入って行きます。その本堂では、元三大師が鬼を退治するための護摩を焚いており、鬼たちは大師の周りをグルグルと回って護摩供の邪魔をしようとします。しかし大師がそれに負けじと護摩供を続けると、ついに鬼たちはどこかへ消えてしまいます。そこへ弓を持った追儺師(ついなし)が現れ、弓の弦に矢をあてがいながら、東・西・南・北・中央の5カ所に矢が放たれて終了します。
式部は59歳で亡くなるまで、この廬山寺で暮らしたという説もありますが、晩年は雲林院百毫院で過ごしていたという説が現在では有力です。紫式部日記や伊勢物語にもその名が出てきます。
かつて、雲林院の敷地は紫野一帯をしめるほどの大きさがありましたが、鎌倉時代に入るとその勢いは衰退します。後に大徳寺の塔頭として再興されますが、応仁の乱で廃絶したそうです。なお、現在の雲林院は江戸時代に再興し、大徳寺の境外塔頭として存在しています。
また、雲林院は彼女が生まれた場所だという説もあります。理由は大徳寺の塔頭・真珠庵(一休和尚を開祖とする寺)に彼女の産湯井戸があるからかもしれません。また、紫式部の紫という名前は、皇室や貴族の遊猟地であった紫野からきているとの説もあります。

紫式部の墓

小野篁と閻魔大王

一方の小野篁ですが、彼はあの世の冥官であり、地獄行きかどうかの判決の助言をしていたといわれています。閻魔大王が任命した、いわば裁判官です。
大王との出会いは812年、彼が11歳の夏でした。帝の庭園であり、入ることが許されない「神泉苑」で魚釣りをしたため、この池の主の龍(水の神)が怒って篁を底深い地獄へ引きずり込みます。そこで出会ったのが大王でした。彼は大王に、干ばつで苦しむ庶民を助けるために、わざと龍を怒らせて雨を降らせたのだと説明をします。篁の賢明さに感心した大王は、彼を地獄から助け出します。丁度このとき、200年もの間、地獄の冥官をしていた僧が、交代を申し出ていたので、大王は篁が成人した後、暝官の任務を任せたのでした。彼は閻魔大王からお呼びがあると、夜中に六道珍皇寺の「冥土通いの井戸」から冥土の世へ出向き、朝方に嵯峨野にある福成寺の「黄泉がえりの井戸」から現世に戻って宮中に出仕したと言われています。しかし、この「黄泉がえりの井戸」が、2011年の調査で、六道珍皇寺の旧境内から発見されたため、どちらの井戸も六道珍皇寺にあったという説が出てきました。

黄泉がえりの井戸

また、この寺の場所は、この世とあの世の境である六道の辻にあり、そこには冥界への出入り口があると言われています。平安京のころ周辺が葬送の地(鳥辺野)への道筋にあたっていたことに由来しています。この寺も彼によって建てられたと考えられており、境内にある閻魔堂に閻魔像と一緒に小野篁の像もあります。

六道珍皇寺

この小野篁は、伝説上の人物だと言う人もいますが、小野妹子の子孫であり、小野小町の祖父にあたるとも言われています。事実、平安時代初期に実在した官僚で、百人一首や古今和歌集にも彼の和歌が残されています。

小野篁の墓

さて、式部と篁の二人の墓はどこにあるのでしょうか?
その場所は堀川北大路を下った西側にあり、平安時代に式部が生まれ、晩年を過ごしたと言われる雲林院白毫院があった場所になります。雲林院の名前は、源氏物語にも記されています。
現在、白亳院はありませんが、千本ゑんま堂にある紫式部供養塔は、この寺より移されたものと伝わっています。
因みに、千本ゑんま堂(引接寺)は篁が建てたそうで、引接とは仏が生類を浄土に往生させるという意味です。平安時代、寺の北側周辺は京都の三大葬送地の一つ「蓮台野」と呼ばれる墓地であり、彼が朱雀大路の先頭に閻魔大王像を祀ったのが、ゑんま堂の始まりと言われています。

紫式部と小野篁のつながり

ところで式部と篁が同じ平安時代を過ごしたとしても、そこには約200年近い時の隔たりがあります。
ではなぜこの地に、二人の墓があるのでしょうか?
考えられるのは式部が生まれたとされる場所であることに加え、近隣が蓮台野という場所で、後冷泉天皇や近衛天皇の火葬塚があり、皇族や貴族など身分の高い人のお墓があった場所であるということです。また、北側には「紫野」という皇室や貴族の遊猟地があったので、身分の高い二人の墓がこの辺りに存在するのはあり得ることです。
では隣あっているのは、なぜでしょうか?
源氏物語というのは架空の創作物語であり、事実ではありません。その上に好色を描きすぎて、式部は地獄へ落ちたという話が「源氏供養」という能の演目の一つにあるそうです。地獄に落ちた式部を助け出すために、篁は六道珍皇寺に向かい、冥土通いの井戸から地獄へ降りて行きます。そして、閻魔大王に彼女を地獄から出してくれるよう、お願いします。そして助け出した後、自分の墓の隣に埋葬したのではないかと言われています。また他には、地獄に落ちた式部を哀れむ多くの読者が、篁に彼女を助け出してほしいと、彼の墓を式部の墓の横に移したという説もあります。これ以外にも諸説あり、真相は今でも謎のままです。

迎え鐘と送り鐘

因みに、六道珍皇寺にはご先祖様を迎える「迎え鐘」があります。 この鐘は古来より、その音が冥土にまで届くと信じられており、亡くなった人が鐘のひびきを頼りに、この世に呼び寄せられると言われたことから、この名が付いています。

迎え鐘

これに対して京都の寺町にある矢田寺には「送り鐘」があります。こちらは、お盆でこの世に帰って来られたご先祖様が、道に迷わず冥土に戻れるようにする送り出しの鐘です。「迎え鐘」と「送り鐘」、この二つで対になっているそうです。

参考文献
紫式部(令丈ヒロ子著・岩崎書店)
清少納言と紫式部(福家俊幸著・小学館)
紫式部と源氏物語(川村裕子監修・ほるぶ出版)
紫式部(沢田正子著・清水書店)
紫式部と平安の都(倉本一宏著・吉川弘文館)
紫式部(朧谷寿著・ミネルヴァ書房)
紫式部の生きた京都(京都市埋蔵文化財研究所監修・ユニプラン)
冥官小野篁(与家星和著・文芸社
小野篁その生涯と伝説(繁田信一著・教育評論社)
小野篁 千本えんま堂引接寺由来記(発行・千本えんま堂引接待)
古寺巡礼京都5六波羅蜜寺六道の辻(小松和彦著・淡交社)
六道の道あたりの史跡と伝説を訪ねて(加納進著・室町書房)

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この記事を書いたライター

京都市左京区出身。
歴史に興味をもち、関西大学文学部史学科を卒業。
KBS京都(京都放送)に入社、現在は常勤監査役。
京都の史跡を多くの方に伝えたくて、京都史跡ガイドボランティア協会員として活動中。

|KBS京都 常勤監査役|史跡/散策/寺社