知る人ぞ知る素敵な布「西陣絣」VOL.4 西陣絣の歴史

華やかな絹絣でありながら、何故だかあまり知られていない西陣絣。一体どのようにして西陣絣は発展してきたのでしょうか。今回は、その歴史を辿ってみましょう。

絣はどこで生まれたか

魅力的な絣織物は世界中にありますが、そもそも絣はどこで生まれたのでしょうか。

経糸や緯糸の染めが薄くなったり一部色代わりしただけで絣模様になるので「世界各地で偶発的に生まれた」という説も頷けはするのですが、今日あるように経糸や緯糸を意図をもって加工し模様を生み出す絣に関しては「インドを起源として東や西の国々に伝わっていった」という説が一般的です。遺物や歴史書の記述から研究が進み、5世紀には中国、6〜7世紀にはインドネシア、7〜8世紀には日本、10世紀にはヨーロッパや北アフリカに伝わっていることが明らかにされているそうです。

日本に現存する最も古い絣は、法隆寺に伝世している「太子広東(たいしかんどう)」と称される一連の絹絣です。絹絣を用いた幡のうち「広東綾幡」には、「和同7年」(714年)の墨書銘が残されています。しかしこれは外国からの伝来品であり、日本でつくられたものではないと考えられています。

同じ絣技法の織物が法隆寺の品々以外に見つかっていないこと、その後の日本の染織技術に根付いた形跡がないことなどがその理由です。しかし多色使いの絹絣は日本の絣なかでも西陣絣の特徴と直結しますので、太子広東は西陣絣の源流ともいえる裂地。それもあり西陣では1981〜1983(昭和56〜58)年にかけて西陣絣組合研修事業として、職人さんたちによって太子広東の復刻が行われました。

1981〜1983(昭和56〜58)年に復刻された太子広東
徳永弘氏蔵

締切から熨斗目、御殿絣へ

次に日本の歴史に絣が現れるには、室町時代を待たねばなりません。現存する資料としては、祇園祭の芦刈山伝来の「綾地締切蝶牡丹文片身替小袖(重要文化財)」があります。

1964(昭和39)年に芦刈山収蔵庫にある長持から見つかったもので、1974(昭和49)年に修理したところ左襟裏の麻地に「天正十七年己丑年六月吉日」の墨書が見つかったのだそうです。町内では古くから「織田信長に拝領した小袖がある」と伝えられており、1582(天正10)年に信長が本能寺で亡くなっているので、信長本人ではなくても親族縁者から寄進された可能性があると考えられています。

この小袖は段代わりの地に蝶と牡丹の紋織りが織り出されているのですが、地色の段代わり部分は経糸を防染して色変えした絣の技法にあたります。この「綾地締切蝶牡丹文片身替小袖」は2022(令和4)年に龍村美術織物によって復元新調され、西陣絣職人の葛西郁子さんが絣部分を担当しました。

芦刈山に伝わる綾地締切蝶牡丹文片身替小袖(重要文化財)
(公財)芦刈山保存会提供
芦刈山に伝わる綾地締切蝶牡丹文片身替小袖(重要文化財)
(公財)芦刈山保存会提供
2022(令和4)年に復元新調された綾地締切蝶牡丹文片身替小袖
(公財)芦刈山保存会提供
2022(令和4)年に復元新調された綾地締切蝶牡丹文片身替小袖
(公財)芦刈山保存会提供

このように地色を大きく染め分けた絣を「締切(しめきり)」と呼びますが、桃山時代の縫箔小袖にも同じものが見つかるそうです。表面が刺繍や箔で覆われているのでつい見過ごしそうになるものの地に紅白の段があり、締切絣が使われていることが多いのだそう。締切の技法は江戸時代に入ってからも能装束の唐織や厚板などに使われており、現在の能衣装にも同じ技法の衣装を見ることができます。また戦国時代の陣羽織にも締切らしきものを見つけることができます。やがて、武士が裃の下に着用するきものの腰の部分を色変えした「熨斗目(のしめ)」が、つくられるようになりました。

江戸後期になると、熨斗目の色代わりの部分にさらに縞や格子、絣などを入れた凝ったものが登場しており、京都に300年続く(株)矢代仁には大名家に納められたという『熨斗目腰本帳(嘉永四年在銘)三井本店用』という見本裂集が残されています。また江戸後期からは、女性の着物にも絹絣が使われるようになり、同じく(株)矢代仁に、文政期(1818〜1821年)や天保期(1831〜1845年)の裂地見本が残されています。(株)矢代仁の女性向けの絣は大名家に働く女性たちの仕事着にもなったそうで、「御殿絣(ごてんがすり)」と呼ばれていました。

京都に積み重なる技術の厚み

西陣織組合のウェブサイトを見てみると、西陣織の源流は遠く古墳時代まで求められるのだそうです。5、6世紀頃に大陸からの渡来人である秦氏が、現在の京都太秦あたりに住み、養蚕と絹織物の技術を伝えたのが始まりだとされています。また奈良から平安京に都が移ると、朝廷では絹織物技術を受け継ぐ工人たちを織部司(おりべのつかさ)という役所のもとに組織し、高級織物をつくらせました。工人たちは現在の京都市上京区上長者町あたりに住まいしており、そのあたりは織部町と呼ばれたそうです。

平安中期以降になると官営の織物工房は衰えていき、工人たちが自分たちで織物業を営むようになります。そうした工人は綾部町の近くの大舎人町に集まっていたといい、鎌倉時代には「大舎人の綾」「大宮の絹」といった織物をつくって珍重されていたと伝わっています。室町時代に入ると工人たちは、大舎人座(おおとねりざ)という同業組合のようなものを組織し、朝廷や公家、武家の注文に応じていました。この大舎人座の工人たちは応仁の乱によって離散しますが戦争が終わると京都に戻り西軍の陣地跡あたりで再び織物を始め、西陣織の元祖となるのです。

(株)矢代仁に江戸後期の見本裂が残されている以外は、芦刈山の小袖も能装束も実際に京都でつくられたという証拠は残されてはいません。しかし、こうした歴史を振り返るだけで「締切絣も熨斗目絣も絹絣は京都でつくられてきた」と考えるのが自然な流れではないでしょうか。

歴代の工人たちが時代時代に最新の海外の絣布を見て研究しなかったはずはないでしょう。太子広東はもちろん、戦国時代にもたらされた古渡裂に使われる絣も、もし工人が見ていたら絶対に研究して再現しているに違いありませんし、長い歴史を通して京都で絹絣がつくり続けられている可能性はかなり高いという気がします。もちろん証拠はないのですが、普段から大勢の職人さんたちに会いそのスピリッツに触れているわたしとしては、どうにも確信めいた気持ちがするのです。

日本における絣の流れと西陣絣への影響

九州の久留米絣、北陸の越前上布など、日本には絣の産地がいくつも残されており、現在も魅力的な絣がつくられています。その源泉となるのは沖縄の琉球絣です。インドから海のシルクロードを渡って琉球に伝わった絣技法が、琉球貴族の衣装として発展。江戸中期にその技術が薩摩藩にもたらされ、やがて日本各地に伝播していったと考えられています。現在の沖縄には琉球王朝時代の手技はあまり残されていないそうですが、今も豊かな染織文化は健在で、絹、麻、芭蕉、木綿とさまざまな素材の絣がつくられています。

また、久留米や伊予、備後、山陰地方に代表される藍染と白のコントラストが美しい木綿絣は木綿が一般的になった江戸時代後期から作られるようになったもので、明治、大正、昭和初期に庶民の日常着として広く普及しました。絣といえば、そんな藍染絣を思い浮かべる方も多いでしょう。

絹絣は元来武家や貴族といった上流階級のものでしたが、やがて御召や紬、紡績糸による織物などがつくられるようになり、大正時代から昭和初期にかけて一般の人々も絹絣を着るようになります。結城や大島の細かな絣が知られていますが、カラフルで大柄な西陣絣や銘仙も流行しました。昭和の御召の古着に琉球由来の絣模様が使われていることも多々ありますので、西陣絣は琉球を発端とする日本各地の絣の影響ももちろん受けているに違いありません。また、戦後の絣柄には洋服地の影響を思わせるものもあります。

こんな風に、西陣絣は時代時代の織物文化と響き合い、工夫を重ねて進化しながら受け継がれてきた技術なのだと思います。

参考資料
日本の美術309「絣」小笠原小枝/至文堂 1992年刊
染織と生活27 特集 絹の絣/染織と生活社 1979年刊
染織の美11 特集 日本の絣/京都書院 1981年刊
世界の絣 IKAT textiles form the world /文化学園服飾博物館 2011年刊
西陣織工業組合 ウェブサイト
京都祇園祭芦刈山 ウェブサイト
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この記事を書いたライター

染織や紙を中心に地元京都の工芸を取材し、WEBや雑誌に寄稿。
2014年に西陣織の職人さんたちと西陣絣を伝える「いとへんuniverse」を結成。個人でも西陣絣の研究活動を続けている。また、2020年より染色作家岡部陽子と手染毛糸Margoを立ち上げ、インディダイヤーとしても活動中。


|いとへんライター・文筆家|西陣絣/伝統/職人/糸