陰陽師 安倍晴明が土木工事を
松原橋と法城寺
初期の「洛中洛外図屏風」を見ていますと、今の松原橋付近は鴨川の中州に老木の茂った寺院が描かれ中州をはさんで2つの橋が確認できます。豊臣秀吉による京都改造以前の松原橋一帯の景色です。当時の松原橋は五条橋、清水橋、勧進橋とも呼ばれ清水寺への参道であり、途中の「六道の辻」は鳥辺野(葬送地)への入り口で、この世とあの世の境とされてきました。
鴨川は氾濫を度々繰り返し、都人の生活をおびやかしておりました。花山天皇は陰陽師「安倍晴明」に鴨川の治水を命じたそうです。晴明が祈祷をするとたちまち「水が去って土が成り」ました。晴明は鴨川の中州に寺を建立し、この経緯(法と城の字を分解すると、水=さんずいへん、去、土、成)から「法城寺」の寺名が名付けられました。寺内には晴明を葬った塚があり、晴明を祖といただく民間陰陽師の京における一大根拠地となったようです。また屏風には「大黒堂」と書かれてあり、寺門のかたわらに大黒天の絵が描かれています。中世に流行した大黒信仰の一つの拠点が同寺にもあったようです。この法城寺のある島(中州)は中世の人が特別な信仰を寄せた聖地であったように思われます。
下の地図は江戸時代前期の京都の地図の一部ですが四条から五条にかけて「川原」と書かれ白紙となっています。これは川筋が複数に分かれて広い川原を西南に向かい流れていたからだと思われます。現在、鴨川は四条から五条にかけては南南西の川筋となっております。
鴨川は今よりはるかに広い川だった
平安時代からこの一帯は荒涼たる川原で川幅は、東は大和大路、西は河原町まで(約東西、四百米、南北、八百米)の広範囲で中央に木々の茂った堅固な島(中州)がありました。この島に法城寺がありましたが、寺の位置が気になります。現在の宮川筋と呼ばれる通りに祇園祭の神輿洗いで使用された宮川が流れていたらしく、宮川に架かる橋が島をつないでいるわけですから、現在の松原橋児童公園の北あたり一帯だと思われます。
清水寺参詣曼荼羅の五条橋を見てみますと島に架かる右側(西側)の橋で牛若丸と弁慶が争っています。2つある五条橋でも西側の橋が対決の場所というわけです。
豊臣秀吉による五条橋の架け替えにより松原には橋がなくなり法城寺も少し東へ移転致します。そして慶長十二年(1607)英誉寿林和尚により、三条大橋東詰めに移転し寺名もゆかりのある法城や晴明にちなんだ「法城山晴明堂心光寺」と改め、宗旨も真言宗より浄土宗に改宗して、現在に至っております。
秀吉が作った今の鴨川
写真は心光寺本堂に安置されている鎌倉時代の仏師・快慶作の「阿弥陀如来立像」ですが、かつて鴨川の法城寺本堂にあったご本尊であります。晴明塚は宮川町に現在も祀られています。法城寺の通称(大黒どう)となっていた大黒天さんは「大黒町通」にその名前を残し、現在は清水寺本堂に祀られている有名な「出世大黒天」(室町時代)そのものであります。
この広かった鴨川の川原ですが、寛文十年(1670)「寛文の新堤」と言われる河川改修で現在見る川筋となりました。この時に秀吉構築の御土居堀も壊され、広い川原も大きく変貌をとげ、この時に先斗町、木屋町、宮川町等が形成され市街地が拡がり今日に見るような町並みができあがりました。
秀吉の五条橋付け替え以降、松原橋は簡素なつぎつぎの板橋を渡した姿で使用されて居たようです。明治十四年に京都府が木造の本格的な橋を架け、同三十九年京都市が架け替えますが、昭和十年の「鴨川水害」で三条・五条大橋と共に流失したようです。今のコンクリートによる橋は昭和三十四年に架け替えられました。