前回「聚楽第」で述べたように、豊臣秀吉は甥秀次を高野山に追放し、切腹に追込んだ。その後、都で行われた悲惨な事件を紹介します。
今から400年ほど前、文禄4年(1595年)8月2日の昼下がり、京の三条大橋西南の河原で世にも恐ろしい悲劇が演じられた。平和で安心・安全な生活を謳歌している現在の人々から見れば、とんでもない処刑が行われた。
何の罪もなく、豊臣秀次の縁者というだけで子女と妻妾40余名の一族が、三条河原の中州で無残にも処刑されたのである。
いわゆる「秀次事件」が起こりました。
秀次は太閤秀吉の姉「とも」の子として生まれ、近江八幡の城下で善政を行っていた殿様であった。
実子に恵まれなかった秀吉に請われてその養子となり、一時は豊臣を継ぐ関白太政大臣として天下にときめいていた。邸宅は、京のど真ん中にあった聚楽第であった。
関白職を甥の秀次に譲った秀吉は、伏見の指月に隠居の城を築き住みだした。
しかし、太閤秀吉の愛妾「淀の君」に秀頼が生まれたのである。
以来秀次は実子を盲愛する老齢の秀吉から次第にうとまれ、加えて石田三成らの忖度もあり、最後は謀反の罪状のもとに関白の職を奪われてしまったのである。
秀次は高野山に蟄居し、何の先議もされずに自刃させられてしまった。やがて京に運ばれた秀次の首は、刑場の土壇の上に西向きに据え置かれていた。その場所が三条大橋西南の河原の中州であった。
悲惨だったのは、40余名に及ぶ秀次の妻妾、さらにはその子どもたちだ。
早朝より死装束に装いをこらした一族の女性たちは、母君の胸に抱かれた若君や姫君とともに牛車に乗せられ、聚楽第から市中引き廻しのあと三条河原に引き出された。
河原には刑場が設けられたが、なんと刑場の塚の上には、秀次の生首が置かれていた。
その首の前で、処刑人たちは泣き叫ぶ子どもを母親から引き離し、容赦なく心臓に刃を突き立て、女たちを屠り去っていった。あたかも地獄絵を見るようであった。
処刑から16年後の慶長16年(1611年)豪商角倉了以が、運河「高瀬川」を開削した際に、荒れた墓域を整理するとともに、秀次一族の菩提を永く弔うために寺を建立した。今では、三条木屋町下ル東側の瑞泉寺に秀次や一族が処刑された縁者の菩提寺がある。そっと手を合わせたいものだ。
京都は、1200年の歴史の上にある。
光もあれば、影もある。
あらためて歴史の重みを噛みしめたいものである。