光秀の人物評価については、功績や性格からさまざまな意見や評価が飛び交っている。人物を評価評定するには、一般的には評価評定している人物の人間性や資質によって、大きく左右される。
戦国時代の日本の情勢報告書を残したポルトガルのイエズス会宣教師ルイス・フロイスは、著書「日本史」のなかで、光秀を次のようにまとめている。
光秀の性格を、率直に語っている。「日本史」は、続けて…
光秀の抜け目のない性格を指摘している。
水色桔梗の紋章を愛した戦国武将の明智光秀は、果たしてどのような人柄だったのか。桔梗の花言葉は、「誠実」、「永遠の愛」であり光秀の人物を評した言葉のように思う。
1.智将、武将として・・・
永禄10年(1567年)光秀40歳。細川藤孝のとりなしで足利義昭に仕える 藤孝は織田信長に仕える。光秀、藤孝が仲介し、織田信長は足利義昭と謁見する。
永禄11年(1568年)光秀41歳。信長、義昭を奉じて上洛する。光秀も上洛し、義昭や公家衆との中継にあたる。
元亀2年(1571年)光秀44歳。比叡山焼き討ちに関与する。
元亀3年(1572年)光秀45歳。居城坂本城が完成する。
天正元年(1573年)光秀46歳。義昭と信長対立にあたり、両者間を仲介か? 朝倉攻めに参陣する。
天正3年(1575年)光秀48歳。丹波攻めの総大将に任命される。難航する丹波経略し、八上城・黒井城・宇津城を陥落させるなど、丹波平定などの数々の功績をあげる。その頃に周山城を築城したと思われる。
天正5年(1577年)光秀50歳。丹波攻めの拠点として亀山城の築城を開始する。その頃にも福知山城を築城したと思われる。
天正9年(1581年)光秀54歳。信長の馬揃えに、3番衆として参列する。
天正10年(1582年)光秀55歳。本能寺の変勃発。信長、信忠自害する。山崎の戦いで秀吉軍と戦闘になり敗れ、坂本へ向かう途中、一揆の農民に殺害される。
「天下所司代」と呼ばれた村井貞勝とともに京都の支配を担当する「両代官」として、行政や訴訟を対応し、その能力を遺憾なく発揮している。足利義昭が京都から没落し、将軍が不在となった状況では、信長から篤い信頼があった光秀が、公家や社寺を保護する役割を引き継ぎ、織田家家臣団の筆頭になる。
光秀が支配した近江国滋賀郡や丹波は、光秀たちは織田政権の「譜代大名」として一定の地域の支配を任されていた。明智軍法を布き独自の税を免じて、城下町づくりをし、政治家・行政官としても有能な人物であった
もしも、「本能寺の変」を光秀が起こさなかったら、歴史は違う進み方をしたのではないか? 信長は間違いなく天下統一を成し遂げたであろう。しかし、天皇や朝廷はどうなったのか? 都に住み続けた人々は、安心安全な生活ができたのだろうか? そうなると、秀吉はどのようになったのか? 泰平の世を築いた家康はどうしたのか? 権力闘争の構図の日本史は、どのように変わっていったのか? 考えるだけで楽しい。
光秀は、戦国時代を渡り歩いた武将なのである。
坂本に向かう途中、農民に助けられて生き延び、その後、天海僧正として徳川家康を支えたという説もある。
2.家庭人として・・・
光秀との結婚を控えた熙子(ひろこ)は、天然痘(疱瘡)を患った。あばたができた熙子に代えて、親は、妹と結婚をさせようとするが、替え玉に気が付き熙子と無事結ばれた。側室を持たず、正室だけを大切にした。妻を愛する家庭人であった。
坂本城から菩提寺の西教寺に妻・熙子の遺体を運ぶ葬送時に、普通主人は参列しないが、光秀は最後まで添い遂げた。夫婦仲は子どもたちの人格形成に大きな影響を与えた。
西教寺に葬られた家臣を弔うための供養米を寄進した時にも、その名を並列に記し平等供養米を寄進した。家臣の家族をも大切にした。
光秀の長女は、伊丹城主・荒木村重の息子に嫁いだ。荒木は共に信長に仕える仲間であり、光秀にとっても丹波攻略で信頼する同志として戦っていたはずが、突如寝返って反信長となった。その直前に光秀は長女を荒木家から引き取っていたため、政争に巻き込まれずに済んだ。
次女は、津田信澄に嫁いだ。信澄は信長の弟・信行の息子であり、これにより織田家とは遠いながら姻戚関係になった。
三女玉(後のガラシャ)は、天正6年(1578年)に細川藤孝(幽斎)の嫡男・忠興と結婚した。美男美女のカップルだった。しかし、父・光秀によって、不幸のどん底に落とされるような運命を強いられ、玉は、丹波の山奥に閉じ込められた。いわゆる「味土野での幽閉生活」を送った。その過程で出会ったキリスト教を信仰し、自分の人生を委ね、周囲への慈悲や信仰への一途な思いの中で、自らを救う道を見出し、最後は「家」のために人生を捧げた。彼女の性格は、気の強さもあり、また知的好奇心にあふれていたと伝わる。
「細川ガラシャ夫人」は、すでにヨーロッパでは戯曲になり、西洋でも有名な日本人女性とされた。
三人の娘たちは、武将の家に嫁ぎ、それなりの苦労はありながらも乱世をしっかりと生き抜いた。
光秀は、妻を愛し、子どもたちを育て上げた家庭人であった。
3.教養人、文化人として・・・
永禄11年(1568年)41歳 連歌会に初めて参加する。生涯で50数回の連歌会を主宰あるいは参加したといわれている。当時、連歌師の第一人者・里村紹巴がその師匠であった。連歌は特に難しいジャンルであり、良き指導によりさらに磨きを掛ける光秀の心がけは、まじめで努力家の側面を表している。
天正6年(1578年)51歳 信長から茶の湯の開催の許可を得る。津田宗及が光秀に茶道の手ほどきを施した師匠であった。茶の神髄である謙虚さや相手を思いやる心などを教えられた。当時の茶道には、茶道具の名物ぶりを自慢する要素も強かった。茶道具に経済的な価値を与え、家臣が褒美として受けとることで、人心掌握策に利用したと考えられる。茶道を政治的に利用した。
光秀自身の素養として、文化的な趣味による交友関係や、知識・教養が必要である。それらの素養に裏打ちされた判断力が不可欠である。
光秀は、和歌を詠み茶道に通じた、文化人であった。
4.今こそ、光秀像を見直そう!
明智光秀は、「天下の謀反人」と呼ばれているが、「本能寺の変」を起こした光秀が今も生き永らえてれば、どのようなコメントを発するであろうか? おそらく勝者により捏造された「敗者の美学」に驚愕するに違いないであろう…
光秀像については「大悪人」のイメージが刷り込まれ過ぎている。幼鳥は、初めて動くものに興味を持ち母親と思いついて行く。動くものが玩具でも良いのである。動物行動学から言えば、刷り込まれるのをインプリングリングと言い、はじめの一歩が、「天下の謀反人」や「大悪人」のイメージが刷り込まれて過ぎて、先入観としてインプリンティングされているとなかなか払拭しにくいのである。
光秀について戦の記録などの軍記や古文書などの史料、そして公家などの日記を精査し、光秀が在地した遺跡や伝承などを参考にして、明智光秀を真正面から見直す必要がある。
私は、光秀こそ武士の手本となるべき素晴らしい武将だった。妻を愛し、子どもたちを育て上げた家庭人でもあった。そして、連歌の才、茶湯の嗜みなど織田家中でも教養の高さから一目置かれる存在だったと思っている。
やはり 光秀本人しか分からない事が多く、その感傷に浸ってしまうのは、私一人であろうか……それだけ、謎に包まれた名武将・迷武将だったのかも知れない。