『日本鉱泉誌』に描かれた嵐山温泉 京の湯浴み万華鏡(其の一)

今月から「京の湯浴み万華鏡」というタイトルで綴らせて頂くことになりました。
京都の温泉をご紹介し、その後、銭湯に話を移すこととします。
お楽しみください。 

近代日本の温泉を知る上で、最も重要な資料といえるのが『日本鉱泉誌』(明治19年刊、上・中・下3巻本)です。

日本鉱泉誌

鉱泉というのは温度にかかわらず一定以上のミネラル分をふくんだもののを指しますが、明治14(1881)年にドイツのフランクフルトで万国鉱泉博覧会、いわば温泉万博が開催されることになり、日本からも参加すべく明治政府は各府県に温泉調査を命じました。
その調査結果をまとめたのがこの鉱泉誌であり、当時把握できた全国の鉱泉がほぼ網羅的に記載されています。

京都の項に記載されているのは、嵐山鉱泉、天龍寺鉱泉、稲篭鉱泉(現在の笠置温泉・木津市)、木津鉱泉(現在の木津温泉・京丹後市)の4件です。
今回はその一番目に挙がっている嵐山鉱泉、現在の嵐山温泉についてお話ししましょう。

みなさんご存知のように、嵐山・嵯峨エリアは平安貴族の別荘地として栄えた風光明媚な場所、清少納言は「野は嵯峨野、さらなり」と嵯峨野の美しさを愛でています。
源氏物語にも多く描かれたところです。
第十帖 賢木には光源氏が六条の御息所を野宮神社に訪ねる場面が描かれ、自然豊かな嵐山の様子を伺うことができます。

『都名所図会』4巻

時代は下り、江戸時代のガイドブック『都名所図会』には、法輪寺、渡月橋とともに紹介され、「嵐山は大井川を帯て北に向ひたる山なり 亀山院吉野の桜をうつし給ひし所とぞ」との解説文が添えられています。
その様子は広重の浮世絵からもうかがいしれます。

広重「六十余州名所図会 山城 あらし山渡月橋」

つまり現在、嵐山といえば渡月橋付近一帯のエリアのことですが、厳密には大井川(大堰川)南岸の山を指しているのです。
なお渡月橋の名は、亀山天皇が嵐山で舟遊びをされた際に、舟から見える橋を「くまなき月の渡るに似る(曇りのない夜空に、満月が橋を渡っていくようである)」と愛でられたことに因みます。

 しかしそのころ温泉があったわけではなく、同誌によるとこの地で温泉が発見されたのは明治10年です。
泉質は炭酸泉、無色透明で味は無く、硫化水素臭があり、弱アルカリ性、温度は57度(摂氏では約14度)と記されています。
所在地は嵐山渡月橋の西方十五町(1.6km)であり、市街からは二・五里(約10km)。
年間の浴客数は平均4000人とあります。
年間4000人ということはひと月平均333人、二人づれとして、ひと月約160組と賑わっていたことがわかります。

ここからは少し『鉱泉誌』からはなれますが、この嵐山温泉は、京都市街の内外で最初の”温泉”だったわけではありません。
というのも、近代の京都で先に温泉と銘打って開業したのは明治6年、現在の円山公園の一角できた吉水温泉(別称円山鉱泉)だったからです。
これは泉源のない人工温泉でしたが、たいへんな話題となりました。
『京都繁栄記』(明治26年)には「又近年この地に人造の温泉場を構へ傍ふ三層の高閣を営めり」とあるように、金閣を模した三重の塔の建物で京都の町を見渡すことができる人気の場所でもありました。

絵葉書「京都のホテル円山(吉水温泉)」

当時の英文ガイドブック”The official guide-book to Kyoto and the allied prefectures”には円山鉱泉として写真とともに、次のように紹介されています。

「この温泉は也阿彌ホテルの南にあって、3階建ての建物と美しい庭があります。これは“spring(泉)”とされていますが、実際はIka川からの水を炭酸性にしたうえで、入浴できるようにここで温めたものです。」

この吉水温泉は人工温泉ではありましたが、嵐山温泉と無関係とはいえません。というのも、このような観光地としての成功に刺激を受けたかのように、吉水温泉の開業から遅れること4年、明治10年に嵐山で温泉が探し当てられているからです。それから15年、『日本漫遊案内』(明治25年発行)の「嵐山」の項からは、この温泉が嵐山の魅力の一部となったことが読み取れます。

天龍寺の門前松並木の間を抜け、渡月橋に出るとば嵐山は大堰川の流れを距てたる対岸に高くそびえたっている。
春夏秋冬の絶景は既に世の中に定評がある。
流れに沿って遡れば、小督の塚、仲國の塚、(中略)さて舟を雇い流に棹(さをさ)し、温泉に遡る間の名勝は、戸灘瀬瀧(となせのたき)、千鳥淵などあって、険しく危なそうに見える大岩が突き出し、水清く緩やかに、山の色は逆さまに影を映して、書画の間を行くようである。
こうして山下の温泉に着き、湯に浸かることもできる。
新鮮なる川魚料理を味わうもまた乙である。(現代語とし一部略)

山水画に描かれたような美しい景色の中にある温泉へ舟で行く、二次元の世界が3Dに立ち上がり、その中へ進んでいく感じ、なんという贅沢さでしょう。
明治29年発行の案内書にも「花の湯―嵐峡より湧出する鉱泉を温めて、入浴に供す」として紹介されています。

先ほどご紹介した英文ガイドブックは明治28年刊ですが、そこでは次のように紹介されています。

天龍寺のArashi-yama (以下筆者抄訳) 大堰川の南岸の切り立つ山に桜・紅葉・松の木々のある嵐山は日本で一番有名な場所のひとつです。
桜は大和の吉野から運ばれて育てられたもの。
山腹に桃色の雲のように咲き誇る姿は、多くの人を魅了します。
静かな水には多くの貸し船が浮かび、川面には美しい風景が映っています。
川の少し上流には特にリューマチに効能があると謳われるミネラルバスがあります。

明治・大正期の小説家田山花袋も『温泉めぐり』(大正7年)の中で嵐山温泉について「京都の嵐山の奥にある温泉、あれなども人は大騒ぎをして出かけた。
炭酸泉で、温度が摂氏の11度と言うのだから、そう大したものではないのであるが、温泉に乏しい近畿地方では、これでも頗る珍としなければならなかった。(略)
それでも、花か紅葉の時に、舟をそこまで曳かせて上がって来て、川に臨んだ欄干に凭(もた)れながら、静かに盃を啣(ふく)むのもまた旅情を慰める一つである」と、温泉の魅力が美しい風景とともにあることを賛嘆しています。

 温泉地というものは一般に、まず湯が湧出し、最初のうちはただ簡単な囲いをして浸かるという利用の仕方をしていました。
湧いている場所でつかるわけですから、男女が来れば混浴になるのも自然なことでした。
その後、温泉の廻りに食事をする店ができ、宿泊する宿が建ち、温泉街ができていきました。
温泉の近くには温泉神社もできました。
病を癒やす効能をもとめて訪れる人々は、7日を一区切りとして2廻り、3廻り、合計21日くらい滞在をするのが通例となっていきます。
これが湯治です。温泉は病を治す場所、養生の場だったのです。

 上に引いた英文ガイドブックに、嵐山温泉の特徴としてリューマチへの言及があるのもこのことに関係があります。
しかし場所の魅力の成り立ちは一般の温泉とは逆なのです。
まず最初に温泉があったのではなく、風光明媚の地として古来より著名だった場所に、近代になって温泉が掘削され、観光地としての魅力がさらに加わったのが嵐山です。
田山花袋が褒めた旅館「嵐峡館」は、渡辺淳一や瀬戸内寂聴の小説にも描かれました。
2006年に閉館し、現在は「星のや 京都」として非日常の贅沢さを味わえる空間になっています。

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この記事を書いたライター

 
奈良女子大学大学院博士後期課程修了。
文学博士。
専門は民俗学・温泉学・観光学。
日本温泉地域学会幹事。
元ミス少女フレンド(講談社)。

現在、奈良女子大学・関西学院大学・佛教大学・嵯峨美術大学等で非常勤講師を務める。
佛教大学四条センターで温泉関係の講座、「温泉観光実践士養成講座」で温泉地の歴史の講師を担当しています。
どちらの講座もどなたでも出席できます。お待ちしております。

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