日本の都が東京に奠都したのは明治元(1868)年のことです。
あれから150年経った平成30(2018)年には、明治維新150年を記念して京都の近代化をもたらした琵琶湖疏水など様々な取組が紹介されました。
しかし京都の近代化は明治時代だけではありません。
大正、昭和の取組にもそろそろ注目してはいかがでしょう。
そこで、世界文化自由都市を目指す京都市として、その先駆けとなった都市レベルの施設を“文化都市施設”と勝手に命名して紹介します。
第1弾は『西京極総合運動公園』です。
なぜかって? それは聞かないでください。
まずは見たままをお届けします。
その成り立ちには、京都市の西部地域への熱いまなざしが感じられます。
ご案内
西京極総合運動公園は、昭和天皇御成婚奉祝記念事業として公園建設が計画され、昭和5(1930)年から第1期工事として野球場、庭球場、児童遊園の建設が、同12年から第2期工事として陸上競技場、水泳場の建設が始まった。
同17(1942)年には運動公園としての体裁がほぼ整い、この年に公園が開設された。
昭和21(1946)年には第1回国民体育大会がこの地で開催され、42年後の昭和63(1988)年には国体2巡目となる京都国体が西京極総合運動公園をメイン会場として開催された。なんという巡り合わせであろう。
終戦直後に始まった国体が、一巡して昭和を終えたということを西京極は物語っているのである。
建設を始めた昭和5年の京都市は、上京・中京・下京・東山・左京の五区で構成されていたので、当時、西京極の地は京都市域ではなかった。
では、なぜ京都最大の運動場が葛野郡京極村の西京極の地に築かれたのか?
大正期の地図を見ても西京極周辺に大きな集落は見当たらない。
しかし阪急京都線は、昭和3(1928)年11月10日に京都御所で行われた昭和天皇の即位の大礼に間に合わせるように、9日前の11月1日に西院まで急遽開通し、3年後には大宮まで延伸されている。
西京極野球場ができる頃には大阪-京都間の鉄道網が整っていたことになる。
京都市域については、当時、周辺市町村の編入計画が進められており、昭和6(1931)年には右京区の誕生とともに西京極の地も京都市域になっているので、京都市編入を見越して作られたのであろう。
一方、京都の西部を南北に流れる天神川・御室川の両川は、川底が平地よりも高い天井川で、流域は低湿地帯であるため、大雨が降れば常に洪水が起きていた。
京都市編入を機に、昭和7(1932)年には両川の改修が計画されたが、財政難で着工されないまま昭和10(1935)年の豪雨で周辺は大きな被害を受けたため、翌年度から4箇年の継続事業として両川が改修されることになった。
鉄道敷設当時の西京極は沼地だったため建設残土を利用して土地改良をしたという話もあるが、西京極運動公園は阪急京都線建設と河川整備によって昭和17(1942)年の開設を迎えることができたのである。
さらに、天神川・御室川の両川改修を機に天神川沿岸に洛西工業地区を造成する計画も立てられた。
しかし戦時体制下で事業は進まず、戦後になってようやく土地区画整理事業により進展することとなった。
こうしてみると、市域を大幅に拡張していく京都市が、今後の発展を見込める西京極の地で、西京極運動公園によって開発の先鞭をきったのではないかとも思われる。
施設面では、東京五輪前年の昭和38(1963)年に京都市体育館が完成し、昭和43(1968)に球技場を建設した。
平成11(1999)年にはプール施設の建設に着手し、平成14(2002)年には京都アクアリーナがオープンしている。
参考文献
京都市市政史編さん委員会編 『京都市政史』第1巻、京都市、2009年京都市情報館HP
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・西京極は昭和天皇成婚記念で造られたんだネ 知らなかった
・京都市域でないのによく着工できたネ
・地図は昭和6年だから市域拡大の時のものだネ 珍しい
・緑の芝生とアンツーカーの色のコントラストがきれいネ
・西京極にもいろんな顔があるんだ