洛中に鎮座した超高層タワー
京都市の「玄関」といえば、なんといっても京都タワー。131mの高さを誇る京都のシンボルそのものです。そしてもうひとつが東寺の五重塔。京都人は旅行や出張から新幹線で帰ってくるとき、五重塔が見えると「あ~、やっと帰ってきた」と思うものなんです。この東寺の塔は全高約55mあり、現存する木造建築物としては日本一の高さを誇っています。しかし、約600年前の京都には、なんと100mを超える塔があったそうです。それも御所のすぐそばに。それが相国寺七重塔です。室町幕府第三代将軍・足利義満が相国寺の東南に建立したこの塔は、高さが約109mあったと伝えられています。塔から眺める都の町並みは一大パノラマであったことでしょう。残念ながらこの塔は落雷や火災により焼失し、幻の大塔となってしまいました。今ではこの地に塔が立っていたことをご存じない方も多いのではないでしょうか?
相国寺と足利義満
ところで、七重塔が建てられた相国寺とは、どんなお寺なのでしょうか。正式名称は萬年山相國承天禅寺といい、京都五山第2位に列せられる名刹です。相国寺は禅で悟りを開く臨済宗の一派・相国寺派の大本山であり、全国に100もの末寺が属しています。なんと金閣寺や銀閣寺も相国寺派に属しているのです。そう考えると相国寺のスケールの大きさが見えてきますよね。
相国寺は足利義満のたっての願いと開基をうけ、10年の歳月をかけて明徳3(1392)年に完成しました。開基とは寺院の創始に経済的な援助をした人のことです。相国寺の「相」は「しょう」と読み、相国には「国を治める」という意味があります。そこから相国は律令制度の左大臣の別称でもありました。相国寺の実質創建者である足利義満の当時の官職が左大臣。つまり、相国寺とは将軍義満の官職名にちなんで名づけられたワケです。ちなみにアニメ・一休さんに登場する「将軍さま」のモデルがこの足利義満公。アニメでは一休さんと張りあおうと、新右衛門さんに無茶ぶりするお茶目な将軍さまでしたが、実際の義満は少年のころから座禅修行にはげむ熱心な仏教徒でした。というのも、11歳にして将軍の座についた義満をとりまく状況は、大変厳しいものがあったからです。
みなさん、歴史で「南北朝」って習いましたよね。朝廷が北と南に別れて、天皇も2人いた時代です。加えて足利将軍家内にも内紛があり、力をもった守護大名が離反するなど泰平とはほど遠い状態でした。そんななか少年将軍である義満は、自らの心と人格を磨くことで、全国の大名を統率し平和を導こうと座禅修行に身を投じます。その純真な気持ちが義満を相国寺創建に向かわせたとされています。実際、南北朝が統一されたのが相国寺落慶の1ヶ月後だったのも偶然ではないでしょう。
ハンパない大きさの相国寺と義満の権力
その一方で相国寺は、権力者である足利義満の力を誇示するために建てられたともいわれています。相国寺の総門は室町一条にあったとされていますが、足利将軍家の邸宅である室町第の総門と兼用であったという説もあります。つまり相国寺はある意味、足利家の庭園だったという見方もできるわけです。
広さは今の数倍あり、北は上御霊神社、東は寺町通り、西は大宮通り、そして南は室町一条あたりだとされます。現在も相国寺の周辺は「相国寺門前町」という町名になり、その町内に同志社大学、烏丸中学校、さらにかつては京都産業大学付属中学校・高等学校(旧成安中高)と、3つの学校があるほどの広大な面積を誇っています。当時の相国寺はこの門前町よりもまだ広いわけですから、その大きさがうかがえようというものです。
この相国寺の広さに比例するかのように、義満の権力も絶大なものとなっていました。守護大名の反乱を鎮め、南北朝の統一を果たした義満は、お隣りの国・中国(当時は明)から天皇をさしおいて、日本国王として任じられたほどです。実際、天皇家を乗っとろうしたのではないかという説があるほど、義満は歴史上有数の独裁者でした。
相国寺七重塔は京都タワーより高かった?
権力者・義満にとって、応永6(1399)年は42歳の厄年であり、また父である2代将軍・義詮の33回忌の年でもありました。その節目の年に建立されたのが七重塔です。何度も書いて恐縮ですが、高さなんと109mの超高層タワーです。「ゆうても京都タワーより低いやん?」とおっしゃる方もあろうかと思いますが、ちょっと待ってください。当時と今とでは、環境が違いすぎます。たしかに京都タワーは京都でいちばん高い建物です。でもすぐ側にある駅ビルをはじめ、市内には高い建物がいっぱいあります。
いっぽう、室町時代はどうであったか?東寺の五重塔など一部を除いて、ほとんどが平屋かせいぜい2~3階建てのはずです。つまり相対的な意味においては、この七重塔のほうがはるかに高いといえます。しかも、京都は北にいくほど標高が上がります。よく言われるのが、東寺の五重塔のテッペンと堀川北山の交差点が同じ高さだという話です。七重塔があったのは、ほぼ今出川通りですから、けっこう北です。つまり土台がすでに高いところに建てられた109mですから、実質的にも現在の京都タワーを凌ぐものがあったといえるでしょう。
三度の焼失に遭い消滅…
さて、「天下の壮観なり」といわれた七重塔も、わずか4年後に落雷で焼失します。その後、塔は北山の地で再建されますが、応永23(1406)年の正月にまたも炎上。ふたたび相国寺東南の地に戻って再建されるも、文明2(1470)年にまたまた火災発生で跡形もなくなってしまいました。1470年といえば応仁の乱まっただ中の時期。戦乱もさることながら、足利将軍家の権力も財力も落ち、再建に及ばないまま今日に至っています。
この間、塔だけでなく相国寺そのものも、たびたび火災に遭っています。先ほどの応仁の乱をはじめ戦乱で2回、失火で2回、計4回も炎上し、そのまま戦国期を過ごすことになります。その後、豊臣秀吉の時代に復興がはじまり、その息子・豊臣秀頼の寄進により完成した法堂は現存する日本最古の法堂として重要文化財に指定されています。
私説・七重塔が焼け落ちたワケ
それにしてもですよ、ちょっと焼け過ぎなことないですか?確かに戦乱があり、治安もよくない時代でしたから、失火もあったでしょう。それでも4回は多すぎる気がしませんか?ここからは、完全に私の「憶測の域」に入りますことをご了承ください。たびたびあったこれらの火災、私は「人災」の可能性もあったのではないか?という疑惑を抱いております。その理由は、七重塔の位置にあります。この塔は現在の同志社女子大学のすぐ東にあったとされています。では、この近所に何があったか?そうです、天皇がおわす御所が目と鼻の先にあったわけです。現代風にいうなら「御所北スグ」の地です。
ちょっと想像してみてください。現在の御所の真ん前に、京都タワーがあったとしたら…。ものすごい違和感ありますよね。御所をめちゃめちゃ見下ろすことになるからです。ドラマ・水戸黄門のおなじみ決めゼリフを思い出してください。「恐れ多くも前(さき)の副将軍・水戸光圀公にあらせられるぞ。え~い、頭が高い!控えおろう!!」でしたよね。つまり、偉い人の前では頭を低くしなければならないことを意味します。上から見下ろすなんてもってのほかです。
で、七重塔です。高さ109mですよ。御所を踏みつぶすくらいの勢いです。本来、天皇を頂点とする当時の国家において、こんな無礼が許されるワケがありません。それでも足利義満の圧倒的な権力の前には誰も面と向かって異を唱えることができませんでした。そこで義憤に駆られた人たちが密かに画策したのが「七重塔放火大作戦」だったのではないか?という考え方もできると思います。日本の歴史を振りかえると天皇の地位を脅かそうとした者が現れたとき、反動のチカラが作用するかのように大事件が起こります。大化の改新、本能寺の変がその好例です。前述のとおり、この時期の足利義満も天皇の聖域を犯そうとしていた疑いがあります。そして、義満の死因は暗殺ではないかという説もあります。その義満が建てた寺、そして大塔。これらにも反動のチカラが作動したのではないでしょうか?というのが、私的やぶにらみ憶測でした。
文化の宝庫として
ま、そんなブッソーな話は置いとくとして、相国寺のもう一つの顔が「文化財の宝庫」です。学問芸術に深い理解を示した義満は、日明貿易で中国の絵画や陶磁器など様々な芸術作品を輸入し、相国寺の蔵入りにします。真の芸術品は人を育てるのか、相国寺から著名な学僧や画家が輩出されます。水墨画の大家である雪舟も相国寺の出身です。こうして相国寺は文化の中心となっていきました。ちなみに一休さんも一時期、相国寺で修業をしていたらしく「梅図」という絵を残したそうです。
現在も境内にある承天閣美術館には、金閣寺・銀閣寺をはじめとする諸寺院に伝わる美術品が多数収蔵されています。その中には国宝5点をはじめ重要文化財も百数十点あるそうです。近年では伊藤若冲の作品展が話題を呼んでいましたね。そんな文化の宝庫を象徴するかのように、相国寺の本山墓地には藤原定家、足利義政、そして伊藤若冲、当代一流の文化人のお墓が並んでいます。
相国寺散策
相国寺の総門をくぐると、すぐ左手に放生池があり、夏になると蓮の花が彩をそえてくれます。真ん中に見える石橋が天界橋で、かつては御所との境界を示していたそうです。そのまま境内に歩を進めると見事な赤松林の連なりに出合います。私はときどき、早朝の相国寺を散歩していて、朝露まじりの冷たい風とともに赤松林を仰ぐと、とても清々しい気持ちになります。室町時代の象徴ともいえる相国寺は、散策スポットとしても楽しませてくれます。
相国寺の東門からさらに東に進み、3筋目の道を南に下ると相国寺七重大塔の跡碑があります。この道を「塔之段通り」、この一帯を「塔之段町」と呼び、かつてこの地に洛中を眺望できた大塔があったことを偲ばせてくれます。
(編集部/吉川哲史)
<参考文献>「古都巡礼京都 相国寺」/有馬頼底 真野響子
「週刊古寺を巡る 相国寺」/小学館
「京都の地名由来辞典」/源城政好 下坂守
「逆説の日本史7」/井沢元彦
「京都の歴史がわかる事典」/五島邦治
「京都市住宅地図 上京区」/京都吉田地図株式会社
ウエブサイト「相国寺 臨済宗相国寺派」