サラサラサラ~、ズズズーッ、ポリポリポリ…。そう、お茶漬けとお漬物が奏でるハーモニー(?)ですね。「日本人に生まれてよかった」と思う瞬間です。さて、お茶漬けと聞いて皆さんのアタマに思い浮かぶのは「永谷園のお茶づけ海苔」ではないでしょうか。その永谷園のルーツが京都にあったってご存知でした?意外といえば意外なのですが、よく考えれば京都はお茶の町ですから不思議はないですよね。そこで、本稿では永谷園のルーツを探るとともに、わたしたちの生活に欠かせない日本茶の歴史をたどってみたいと思います。
日本にお茶を伝えたのは最澄?
多くの日本文化がそうであるように、お茶も中国大陸から伝わりました。その時期は奈良時代ともいわれていますが、平安時代に遣唐使として派遣された最澄が、中国から持ち帰ったという説が有力なようです。当時のお茶は飲料水というよりは薬、あるいは健康食品的な位置づけの貴重な品物で、お茶を飲めるのは貴族や僧侶など一部の人に限られていました。すなわち、日本におけるお茶発祥の地は、都があった奈良、あるいは京都ということになります。文献によると、815年に嵯峨天皇が茶を飲んだことが最古の記録となっています。しかし、894年に遣唐使が廃止されると茶文化も廃れ、日本人の生活からお茶は姿を消しました。再び日本にお茶が登場するのは、約300年後の鎌倉時代初期まで待つことになります。
このときもやはり中国の影響がキッカケとなります。禅で有名な臨済宗の始祖・栄西をご存知でしょうか。京都の建仁寺を建立したことでも知られています。栄西は禅宗の修行で宋(中国)に渡ります。宋の禅院では茶文化が盛んで、その際に栄西が入手した茶の種を持ち帰ったのが、日本における本格的な喫茶文化の始まりです。
栄西は日本初の茶の専門書である『喫茶養生記』を著し、お茶の飲み方や効能を説きました。鎌倉幕府3代将軍・源実朝が二日酔いになったとき、この本を献上したことが記録に残っています。同じ時期に栄西から茶の種をもらったのが華厳宗の僧・明恵でした。明恵は京都・栂尾(とがのお)にある高山寺に日本最古の茶園をつくり、京都周辺で茶園が広がるようになりました。特に宇治一帯は地形や気候が適していたこともあり、お茶の一大産地として「宇治茶」ブランドが確立されていくことになります。当時のお茶は、粉状にした茶の葉に湯を注ぐ抹茶のような飲み方が一般的でした。ただし、現在の抹茶とは製法がまったく異なり、味もイマイチであったようですが。
千利休の登場
その後、鎌倉時代後期から室町時代初期にかけて、茶園は伊賀・伊勢・駿河・武蔵などの地域に広がります。また室町幕府3代将軍・足利義満が宇治茶を支援したこともあり、喫茶は武士層にも普及するようになりました。同時にお茶が娯楽に使われるようにもなります。たとえば、利き酒のようにお茶を飲んで銘柄を当てる「闘茶」には、博打的な趣きがあったようです。中国から取り寄せた茶器「唐物」を披露するために、大金をはたいて催す茶会なども流行ったようです。これに対して、茶会での博打や飲酒を禁じ、「茶会とは心のふれあいの場」であるべきだとしたのが村田珠光であり武野紹鴎でした。そして時代が戦国になるのを待っていたかのように登場したのが、ご存じ千利休です。利休は「人をもてなす際に現れる心の美しさ」を説き、茶の湯を完成させます。さらに茶道具はもちろん建物や茶室、茶花に至る茶事全般の空間と時間そのものを総合芸術にまで高めました。
戦国大名たちは茶室での茶会を重要な外交の場として、ときに密談の場として活用しました。現代でいうところの密室政治のようなものですね。利休は織田信長・豊臣秀吉といった天下人に寵愛され、有名な北野大茶会の実質的なプロデューサーとしても活躍しました。この茶会では、これまでお茶に縁のなかった庶民にまで関白秀吉自らがふるまったことで知られています。しかし、派手好みの秀吉と心の美を大切にする利休との間には溝が生じ、利休は京都一条にて非業の最期を遂げることになります。
日本茶のスタンダードを確立した永谷宗七郎(宗円)
江戸時代に入ると、飲料水としての喫茶文化も庶民に広まりはじめました。しかし、当時よく飲まれていたのは「煎じ茶」で、茶葉を煎じただけの赤黒い色をした、味も香りも薄いものでした。いっぽうの抹茶は庶民にとっては高嶺の花。そんな状況にあって「もっと美味しいお茶を多くの人に飲んでもらいたい」と立ちあがった一人の男がいました。永谷宗七郎(宗円)、永谷園創業者のご先祖さまです。宗七郎は現在の京都府綴喜郡宇治田原町で茶農を営んでいました。彼は15年もの間、研究につぐ研究を重ねて「青製煎茶製法」という独自の製法でを編み出しました。開発された煎茶は、薄緑色の美しい輝きと芳しい香りを放ち、わずかな甘みとともに格段に美味しくなりました。この煎茶により日本茶のスタンダードが確立したといわれています。時に1738年、世は暴れん坊将軍・徳川吉宗の時代でした。宗七郎はより多くの人にお茶を届けるべく販路を江戸に求めます。道中、富士山に登り「このお茶を天下に広めさせたまえ」と祈ったそうです。
しかし、宗七郎の想いとはウラハラに、江戸における煎茶への反応は冷ややかなものでした。これまでのお茶とはあまりに違いすぎたからです。しかし、日本橋の茶商・山本嘉兵衛が宗七郎のお茶を飲んだところ、その色その味に感服します。そこで嘉兵衛はこの煎茶に「天下一」と名を付けて販売すると、たちまち大評判となりました。山本家の商売は右肩上がりの大繁盛となり、後の「上から読んでもヤマモトヤマ、下から読んでもヤマモトヤマ」で有名な「山本山」への基盤を築くことになります。宗七郎のお茶とその心に感謝した山本嘉兵衛は、明治時代まで毎年25両もの小判を永谷家に贈り続けたとそうです。
天下に名を馳せた永谷家
宗七郎は、その人生を懸けて開発した青製煎茶製法を惜しみなく多くの人に伝授し、煎茶は全国に広がっていきました。幕末になると生糸と並ぶ代表的な輸出品となった煎茶は、欧米各国にまで広まることになります。「このお茶を天下に広めさせたまえ」と富士山に祈った願いが成就されたわけです。宗七郎は当時としては超超長寿の98歳でその生涯に幕を閉じましたが、彼の偉業は後世に語り継がれることとなります。地元の宇治湯屋谷では「茶宗明神」として祀られ、現在でも多くの茶業関係者が参拝に訪れているそうです。ちなみに宗七郎の命日である5月17日は「お茶漬けの日」に制定されています。
この永谷宗七郎から数えて10代目の子孫にあたる永谷嘉男氏が創業したのが「株式会社永谷園本舗」です。嘉男氏の父・永谷武蔵氏が開発した商品に「海苔茶」というものがありました。抹茶に細かく切った海苔などを加え、お湯を入れて飲むものでした。この海苔茶に嘉男氏が調味料、あられなどを加えて開発されたのが「お茶づけ海苔」です。ポイントは「あられ」でした。食感のアクセントになるのはもちろん、海苔や抹茶の湿気を吸収する効果もあり、海苔の味と香りを引き立てました。現在でも定番商品として売れ続けるお茶づけ海苔は、いわば親子2代によって発明されたことになります。宗七郎の煎茶は、11代の時を経たのち「お茶づけ海苔」と姿を変えて、「天下にひろめたまえ」という願いを再び叶えたわけです。今宵の食卓はこの壮大な物語とともに、お茶づけの深い味わい楽しむのも一興かと。
日本茶のふるさと
ところで、お茶といえば静岡県を忘れるわけにはいきません。お茶の生産量で日本一を誇る静岡県では、全国の4割近くの日本茶が生産されています。2013年には世界基準で農業システムを評価する世界農業遺産に「静岡の茶草場農法」が認定されました。いっぽうで生産量5位となる京都府では、2015年に「日本茶800年の歴史散歩~京都・山城~」が日本遺産に認定されました。日本の喫茶文化をリードしてきたこの地が「日本茶のふるさと」として認められたのです。さらに「宇治茶の文化的景観」が世界文化遺産への登録を目指している最中です。農業としてのお茶ならば静岡であり、文化としてのお茶であれば京都といったところでしょうか。
今日のベンチャー都市 京都、そして文化の町 京都は、お茶に込められた技術革新と文化の精神にその起源をたどることができます。「日本茶のふるさと」である京都山城の地は「京都人の心のふるさと」でもある。私はそう思います。
(編集部/吉川哲史)
日本茶の歴史/橋本素子
千利休と戦国の茶の湯/雑誌「歴史人」
栄西「臨済宗」/髙野澄
京都のナゾ?意外な真実!/八幡和郎&CDI
400年前なのに最先端!江戸式マーケ/川上徹也
株式会社永谷園 ホームページ
株式会社山本山 ホームページ
宇治田原製茶場ホームページ
公益社団法人宇治市観光協会ホームページ
京都府農林水産部農産課 ホームページ
世界農業遺産 静岡の茶草場農法ホームページ
日本食糧新聞社ホームページ