船岡山の光と影
京都人でも「そんな山あったっけ?」と言いそうな小高い山がある。
そもそも「岡」なのか「山」なのかも曖昧な名前である。
しかしこの船岡山から平安京は始まったのである。
葬送の地や刑場としての船岡山
古より都の三大葬送の地は、東の鳥辺野・西の仏野とここ蓮台野であった。船岡山は火葬の地として知られ、多くの人々が船岡山周辺で火葬された。現に今でも歴代天皇・皇紀の御陵が点在している。千本通は無数に立ち並ぶ卒塔婆に因んで千本という地名がついたとも言われている。千本通りは平安京の朱雀大路だから、蓮台野は平安京の背中の部分にあたる。それと、紙屋川の流域で、やや低地になっているのも、葬送の地になった理由であろう。低地であり蓮が生えていて地名の由来になったと考えられる。
西側の山腹には、弘法大師爪彫りの像と称する石仏があるが、まさしく葬場としての昔を偲ぶにたるものである。
平安中期頃から末期に至る160余年間葬地であり、明治3年に廃止になり龍安寺に移されたが、その後、金閣寺裏蓮華谷に移された。筆者は幼少の頃、その谷の煙突から煙が立ち上がっていたのを覚えている。
私が楽只小学校時代、校庭のグランドを水捌けが良くなるように暗渠する工事中、多くの人骨が出てきたのを記憶している。ものの書籍によると、校庭こそが火葬した場所であったと言う。
千本通りには、千本閻魔堂や引接寺釘抜き(苦を抜く)地蔵・上品蓮台寺など葬送関係の施設が残っている。また、船岡山は刑場でもあった。中でも、保元の乱に崇徳上皇に味方して敗れた源為義の息子たちは、後白河天皇方について勝利を得た嫡男義朝と伊豆に流罪となった為朝を除き、9名の兄弟がこの船岡にて兄義朝の手により斬首されている。
軍事施設「陣」としての船岡山
中世、室町時代以降の船岡山は、特に戦略の場として用いられた。応仁元年(1467)の応仁の乱に大内政弘、永正8年(1511)には細川政賢、天文22年(1553)には足利義輝らがそれぞれ陣を置いている。
応仁の乱には山名宗全の率いる西陣の拠点となり、応仁の乱後34年を経た永正8年(1511)8月には前将軍足利義澄が入京して来たため、将軍義植は細川高国などと一時丹波に逃げ落ち延びた。軍勢を集めて入京するや船岡山に義澄軍を破るという戦いがあるなど、大変な歴史を背負った山である。西陣青年の家跡には、応仁・永正の乱合戦碑が立っている。
陣が置かれていた頃は現在の建勲神社はなく、船岡山東側の岩盤近くまで軍事施設があったのであろう。建勲神社裏西側の神域には、今でも堀切・竪堀・横堀や竪土塁が残る。
建勲神社
明治天皇は織田信長の朝廷復興の業績を追賞して社殿を創建させた。はじめは山形県天童藩織田氏邸内にあったが、明治13年船岡山の東麓に移し、次いで現在の山上に遷したもので、本殿には信長を主神とし、その子信忠を配祀している。本殿は御所を拝している向きに建っている。
例祭は永禄11年10月19日信長が入洛して、天下統一の第一歩を印した日に行われている。当日は信長が好んで舞った「敦盛」が必ず奉納されている。社には、太田牛一自筆本「信長公記」や桶狭間の戦いで使用した旨の金象嵌がある刀や紺糸威胴丸がある。
編集部VIEW!!
京都市民からも忘れられがちな船岡山。現在は憩いの場として穏やかな顔を見せているがその長い歴史は複雑である。平安京造営がこの地を起点にされたことからも文字通り京都の歴史を背負った山であることは間違いない。そしてこれからも京都の街や訪れる人々を小高いこの山が温かく見守りつづけてくれるに違いない。
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昭和19年京都市北区生まれ。
理科の中学校教諭として勤めながら、まちの歴史を研究し続ける。
得意分野は「怖い話」。
全国連合退職校長会近畿地区協議会会長。
|自称まちの歴史愛好家|北野天満宮/今宮神社/千本通/明智光秀/怖い話
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