【金戒光明寺】 京都守護職 会津藩主・松平容保の本陣
知恩院と同じ浄土宗に属し、境内には城門のような立派な高麗門、強固な山門、高い石垣、巨大な御影堂など、寺院というよりむしろ「城」もしくは「要塞」と呼ぶにふさわしい容貌である。城郭を思わせるような構造は、同じ浄土宗総本山「知恩院」を彷彿とさせる。
東山の「高台」の上に位置した黒谷さん(金戒光明寺の通称)は、軍事的な拠点から洛中を見渡せる大変都合の良い立地に建つ。小高い岡からは、特に西からやってくる敵に対しては大山崎(天王山)、淀川まで見渡せる。
天守閣の代わりをした山門からは、南の東海道が直ぐ見下ろせ、西に広がる都の変事にも監視が行き届き、御所までの距離は約2㎞、馬で走れば約5分、人でも急げば約15分で到着できる要衝の地であった。
幕末の京都は暗殺や強奪が日常化し、手のつけようのない状態になっていた。
文久2年(1862年)会津藩主松平容保は、京都守護職を任じられ、本陣の宿舎にしたのが金戒光明寺であり、会津藩兵1000人余りが駐屯した。新撰組が容保から「京都守護職預かり」の肩書を掌中にしたのもこの地であった。
会津墓地には、慶応4年(1862年、明治元年)「鳥羽・伏見の戦い」など、文久年間以来の会津藩士戦没者の墓がある。墓地内は広く、200余りの墓石が整然と並んでいる。
墓地には「お江」(二代将軍秀忠の正室)や「春日局」(徳川将軍家光の乳母)の供養塔がある。
この写真のアフロ大仏は正式には五劫思惟阿弥陀仏と呼ばれる仏様で、
「五劫」という気の遠くなるような天文学的長い時間を修行されて髪がここまで伸びたのだという。
ちなみに「五劫」という言葉は落語「寿限無」で「五劫のすり切れ」のくだりでも登場する。
このアフロ大仏には自由にお参りできるのでインスタなどの撮影スポットになっているが
広い境内の墓地にひっそりと佇んでおられるので探すのに一苦労する覚悟が必要だ。
京都盆地には、多くの寺院が散在している。その数は寺院約1700と言われている。平安京の造営当時、四神相応、即ち東に青龍の神(河川・鴨川)、西に白虎の神(大道・山陰道)、南に朱雀の神(池・巨椋池)、北に玄武の神(山・船岡山、北山)に守られた地であった。東西北方面に山が馬蹄形に都を囲み、南に巨大な池があり、山城という地名そのものであった。
時代が移るにつれ、都には多くの寺院が建設され、信仰の対象になっていった。本能寺、妙覚寺、妙顕寺、東寺、西本願寺、東本願寺、本圀寺(現在山科に移転)、相国寺、東福寺などは、敷地も広く多くの武将の陣地になった。そんな事を思い巡らし、訪れたいものである。