京都に残る出雲の国

 京都人からすると、島根県の出雲は少し遠い所だと感じます。

日本の二大神社である伊勢出雲で考えてみますと、京都から伊勢までは自動車で2時間程度で着きますが、出雲までは5時間以上もかかります。
つまり、伊勢神宮は日帰りで参拝できるところであるのに対して、出雲への日帰り旅行はできなくはないですが難しく、結局宿泊が必要になります。

行きたくてもなかなか気軽には行けないところ、になるのです。


そのようにやや離れているという感覚があるのですが、実は京都市内に出雲のなごりが残っているところがあります。
それも京都に都が来る前からの話です。


京都市内、場所は北区になりますが「出雲路(いずもじ)」という地名があります。
市内に賀茂川と高野川が左右から合流する地点があり、そこから鴨川になります。

合流地の北に賀茂御祖神社(下鴨神社)があるので知られています。
その合流地から北西へ賀茂川を少しさかのぼった西側の地名に出雲路神楽町や出雲路松ノ下町といった名前が出てきます。

バス停も出雲路俵町、出雲路橋といった停留所があるのですが、出雲路という地名は京都以外の人にはほとんど知られていません。

奈良時代の頃、このあたりに出雲郷が存在していました。
正倉院文書という奈良時代の歴史資料が残っていますが、この出雲郷には出雲臣(いずもおみ)という姓を持った人たちが住んでいました。

出雲からやってきた人たちだと言われています。

京都盆地に都が来ると決まっていたわけではまったくなく、都市はありませんでしたから、全体的に住んでいたのは少しの人間だけだったでしょうが、出雲の人たちの子孫が農民なり役人なりで居住していたのです。


その後、遷都にされて京都は大きく変わり、千年の都として続きますが、出雲郷の人々がどうなったのかは残念ながらよくわかっていません。
地名などにわずかに手がかりが残っているのみです。


当然のことですが、現在の京都で有名な観光地は、大半が京都に都が来てから由来のものになっています。
京都以外の人で京都に詳しい方も多いですが、都が来る前の京都はどうなっていたのか、それを調べてみると、また新しい発見があるでしょう。

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この記事を書いたライター

 
京都市の南郊、長岡京市で育ち、18歳まで暮らしました。
たまたま受験した名古屋大学経済学部に後期日程で合格し、まったく予期してなかった名古屋に行くこととなりました。実家はまったく裕福でないため、7.5畳2人部屋の大学の寮に4年住むことに。

元々起業志望でしたがすぐにはできませんので、しばらくは会社員として勤めました。その後、念願の会社を創業を行います。パソコン部品をインターネット通販するビジネスです。最初は苦戦しましたが、そのうち軌道に乗っていきます。
しかし、コンピュータ業界の流れは速く、パソコンの低価格化が起こりビジネスの先行きが不透明になってきました。そこで、どうにもならなくなる前に事業を畳むことを決意したのです。幸いにも事業は他社に引き取ってもらいました。居心地が良くて結局名古屋には16年も住みました。

会社の次に何をするかを考えました。いろいろ選択肢はありましたが、祖母が初代教会長として立ち上げた出雲大社紫野教会の教会長が空席になっており、ここを継ぐべく神主になることを決意しました。以前から歴史好きであり、もともと神道にも関心ありました。しかし、世の中を見て「これからの日本人には神道が必要である」と考えたことが最も大きな理由です。
そして、全国に二つしかない神道系の大学のうちの一つで、東京にある國學院大學の神道學専攻科に入学しました。一年制の神職養成課程で、びっしり授業、実習が入っています。すべての授業が神道に関するものです。ここに入ったもう一つの魅力は図書館にある蔵書です。神道について、出雲大社についての本を片っ端から読むことができました。神道を本格的に学ぶことができたのです。。

そして現在、京都市北区ある出雲大社紫野教会の教会長として奉仕しています。
なお、その私生活を知るものはいません。

<目指しているもの>
神主になって目指しているものは「宗教としての神道を広める」ということです。
ここで言う宗教とは
・人々が不安から解放されること
・毎日明るく生きていけること
・人間何のために生きていくのかを教えるもの
ということです。
神社にお参りして現世利益をお願いするのも神道の重要な要素ですから、それも大切にしますが、もう少し積極的に人生を意義あるものにしていくために神道を広げたいと考えています。

<出版した本>
『神々が集う地へ出雲大社-縁を結ぶこころの旅』青林堂
『日本人が大切にしてきた神様に愛される生き方』アスコム

|出雲大社紫野教会 教会長|神道/出雲大社/出雲路/北区/出雲郷