「京都はどこへでも歩いて行ける街」歩いてこそ、京都の魅力を満喫できる。最近の観光旅行者も随分と変わってきた。ガイドブックを片手に名所旧跡を速や足で駆け抜けるのではなく、ジックリと京都の街を鑑賞されている姿に出くわす。

京都ならではの風情ある路地にも関心が高まっている。花街の雰囲気を色濃く残す「祇園の路地」、先斗町と木屋町との抜け道にある「第13番路地」、四条烏丸近くにある「膏薬辻子」(こうやくのずし)や京の美味しいものに出会える「撞木辻子」(しゅもくずし))や若いアーティストが住んで物をつくる「あじき路地」などが紹介されている。

 延暦13年(794年)桓武天皇は、今の京都市に都を移し、平和で安らかな都であるようにとの願いを込めて「平安京」と名付けた。平安京の街は碁盤の目のように区分けされ、大勢の人が住みだし、この特徴的な形は今の京都市の基盤となった。条坊制一辺120m四方の街づくりが行われたのである。この条坊制を区画するのが大路小路である。東西に走る大路は13、小路は26、南北に貫通する大路11、小路は22に達していた。

 秀吉による京都改造は、天正18年から19年(1590~91年)にかけて行われ、京都はこの改造で中世都市から近世都市へと、その構造と機能を変えた。秀吉は道路に囲まれた一町四方の町に、新たに南北路を中央に貫通させ、南北一町東西半町という長方形の街区とする新しい町割りを強制的に実施した。条坊制では中心部に空間部ができるが、新たに南北路を中央に貫通させることで、この空地をも道路に面させ町地を増加させた。秀吉の新町割りを短冊形町割と呼んだ。

この短冊形町割の内部を利用するために、図子(辻子)と言う細い道が通っていた。図子が通ってできた区域を、図子町と言う。図子町に暮らす人々の結束は固く、京都独特の習慣がきちんと守られていた。図子や路地は、いつも生活の匂いがしていた。そこは道であるだけでなく、子どもたちの遊びの場でもあり、いつも声が響いていた。図子や路地は、今でも京都の町家の並びなどで目にする。細い道の入り口には、「通り抜けできます」「通り抜けできません」と書かれていることもある。

「路地」や「図子」に気づき、歩いてみると、その奥にある新しい発見や出会いに遭遇できることがある。ちょっとした冒険が旅をより豊かに、より面白くしてくれる。京都はその期待を決して裏切らない街といってよい。歩く本当の楽しさは、自分の目で見て、自分の感性で選択し、面白いと思うものを捜し出すことにある。自分の足で歩いて、自分だけの京都の魅力を見つけたいものである。

京都に多い路地、読み方は「ろじ」の他に「ろうじ」、「ろーじ」とも読む。本来は「露地」と表記、意味は大通りから折れた、民家の間の細い通路のことを言う。最近ではこのような小路全てを露地と言うが、本来、露地は行き止まりになった小路(細道)のことを言った。行き止まりにならずに次の通りまで突き抜けている路地は「辻子(図子)」(づし)と言う。京都には某々図子という名を持った道が、百数十例もある。平安時代の末期にはじまり、中世から近世にかけて増加したと考えられる。路地数に至っては、図子をはるかに超えるであろう。平安京以後中世を通じて、平安京から市街が無計画にあふれ出す形で都市化していったところと考えられる。

室町時代には大きく北の上京と南の下京に分かれ、それが室町通を中心とする南北軸で結ばれる都市構造になってきた。上京は、公家や武家の邸宅が集中する地域であり、下京は商業地域として発展してきた。今の京都に残る多くの図子は、その両地域に集中している。

京都には百数十例も図子が報告されており、図子から派生した路地は、もっと多く存在する。
多くは、室町時代には大きく北の上京と南の下京に分か別れた地域に散在している。
図子や路地には、今でも住民の生活空間である。見学には充分にプライバーシー侵害にならないように、心配りが大切である。
 

 

三上家路地

 京都市考古資料館(旧西陣織会館)より北に200mほど進んだところに東西に走る細い路地「紋屋図子」(もんやのずし)がある。宮中に織物を納める蔵元が開いた小道であり、その図子の中ほどから北へ細く伸びた路地が「三上家路地」である。現在でも織元「三上家」が一番奥にあり、両側に10軒の長屋には、西陣織の職人を住ませていた築130年の歴史がある。

 現在でも、さまざまなメディアのロケ地に使用され、陶芸家や写真家に建築事務所、蜂蜜家専門店といったアーティストの生活の場となっている職人長屋である。観光目当てに訪れる人も多い。

路地の奥には、大家さんの家 三上家がある。
細い路地を挟んで平屋がコの字に並んでいて、アーティストの集まりである職人長屋である。
 
 

稲荷路地  白蛇を祀る

 今出川智恵光院通を南へ400ⅿほど下がった西側に「稲荷路地」がひっそりとある。路地奥には住民の守り神である「稲荷神社」があり、むかし路地に毎年白蛇が現れたので、路地を守る祭神として敬った。なんと路地住民と白蛇との素晴らし繋がりである。

 現在では、路地には世代交代も進みつつあり、昔のままの長屋・二階建てになった長屋・残念ながら崩壊したままの長屋になっている。しかし、路地12軒の住民の息づかいが感じられる路地の一つである。

路地の入口には、路地名の表札が掛かっている事が多い。路地の奥には、お稲荷さんや地蔵さんを祀っているところがある。
 

 
 

西陣ろうじ  江戸時代にタイムスリップ

 上京区浄福寺通一条下ル(東西俵屋町)に京の路地が再生された。明治初期ごろに建設された集合住宅は、細い路地を挟んで平屋がコの字に並んでいた。長屋住人が撤去した後に10年ほど空き家になっており、屋根が落ちるなど荒廃していた。

 平成30年(2018年)春から改修計画を進められ、古い長屋が工房・アトリエをはじめ、産後ケアールーム、カフェ、憩いの場、簡易宿泊として生まれ変わった。路地には地蔵や井戸を残し、訪れた人が立ち話をしたり、子どもたちが遊んだりする場が作られている。
入り口には、浄福寺西一路地と路地名の表札が掛かっている。

 路地全体をリノベーションしてできた連棟長屋の宿泊施設で、各部屋は傘屋、髪結い処、
三味線屋といったテーマで誂(あつら)えられている。歴史と伝統を感じ、快適に過ごせる京都らしい時間を過ごすことができる。

長屋STAY京都西陣ろおじ

長屋STAY京都西陣ろおじ

日本文化の生活体験ができる宿泊施設を備えている。

再生された「西陣ろおじ」の案内絵図

再生された「西陣ろおじ」の案内絵図

江戸時代風に描く

千年の都は本当に懐の深い街である。
 大路小路の間を縦横無尽(じゅうおうむじん)に図子と路地を張り巡らし、人々は逞しく生活基盤を確保してきた。その空間には人が人を思う心遣いが、秘められている。地域同士が連携し、住民を中心とした自治意識が形成されてきたのである。今でも京都の基盤であり、時が経っても大切にしていかなければならない。

 京都市内で、路地の魅力を守り、生かすための取組が実施されている。路地の多様な価値が見直され、路地の保全・再生・継承に向けた取組の輪がさらに広がっている。その中心になっているのは、京都市都市計画局まち再生・創造推進室である。

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この記事を書いたKLKライター

自称まちの歴史愛好家
橋本 楯夫

 
昭和19年京都市北区生まれ。
理科の中学校教諭として勤めながら、まちの歴史を研究し続ける。
得意分野は「怖い話」。
全国連合退職校長会近畿地区協議会会長。

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