千年の古都には新たなる気づきや発見があり、ドキッとしたり、やったー!という思いに駆られる。古都を知るには、地下鉄・バス・タクシーや自家用車で見て廻るも良し、しかし自転車や徒歩で見て廻ると思いがけない気づきや発見に出くわすことがある。最近の新たなる気づきや発見した事を紹介する。
 

森光子  ………  お墓

  阿弥陀寺墓地(今出川寺町上る200ⅿ東側)

 寺町今出川を北上し、鞍馬口に至る半ば東側に織田信長の墓所の阿弥陀寺がある。信長への墓参をすませ、墓地を徘徊していると下図の写真のお墓に出くわした。何と森光子の墓なのである。その墓石の大理石にはレーザー彫りで森光子がほほ笑んでいる。
 「感謝と愛を捧げる」「花はいろ 人はこころ」彼女の人柄を彷彿とさせる文面である。

京都が誇る大女優

京都が誇る大女優

「感謝と愛を捧げる」「花はいろ人はこころ」と墓石に刻まれている。

 森光子は京都市出身で、京都府立第一高等女学校(現京都府立鴨沂高等学校)中退。両親が相次いで他界し、中退せざるを得なかった。その後、日本の女優としての活躍は目覚しいものがあり、歌手、マルチタレント、司会者と…「日本のお母さん」として称された。作家・林芙美子が自身の体験を元にして書いた長編小説「放浪記」に出演し、千秋楽には2千17回目の「でんぐり返し」を披露した。2012年(平成24年)92歳没 村上家の菩提寺である阿弥陀寺に眠っている。
 
 

千代の富士  ………  顕彰碑

   花園妙心寺塔頭・大法院墓地

 江戸時代後期の思想家教育者佐久間象山が、暗殺されたのは元治元年(1864年)三条木屋町付近で白馬に乗っての帰宅途中であった。尊王攘夷がはびこる中、彼は一貫して開国論者であった。信濃松代藩武士の子であったので松代藩真田家の菩提寺である花園妙心寺塔頭大法院に埋葬されたのである。
 早速に墓地を訪れたのだが、何とそこには横綱千代の富士の顕彰碑が目に入ってきた。顕彰碑の大理石にはレーザー彫りで下図の堂々たる土俵入りの姿であった。

第58代 横綱 千代の富士

第58代 横綱 千代の富士

昭和の大横綱 体重126㎏
ライバルと怪我との苦闘
「だれにも負けてたまるか」
直筆で「心 技 体」と明記

 大法院で抹茶をいただきながら、住職の奥様にお話を伺うことができた。横綱千代の富士は、生前からこの寺の庭園を気に入り、大阪場所が終わると訪れては心を癒されていた。紅葉を楽しむ会に参加していた縁で石碑が建立された。座敷には多くの写真が飾られている。
 

 

会津藩主松平容保の石像

   黒谷金戒光明寺会津藩墓地
 黒谷金戒光明寺の会津藩墓地には時々手を合わせに行く。テレビのニュースで最近会津藩主松平容保の石像が建立されたと聞き及んでいた。百聞は一見に如かずで、どのような像かは見るまでは、恋人に会う心境であった。

 凛々しいイケメンの松平容保公の石像であった。周囲の会津藩士の苔むした墓石と違和感があるが、北西のコーナーに座していて、墓地全体を見守っているようだった。

イケメンの松平容保公の石像

イケメンの松平容保公の石像

会津藩墓地全体を見守っている
美男子で朝廷でも評判
正直で誠実な性格

 会津藩主松平容保が文久2年(1862年)京都守護職に任命されると、その本拠地となった黒谷金戒光明寺周辺には、会津藩士が分宿した。会津藩墓地には、「鳥羽・伏見の戦い」など会津藩士戦没者の墓が200余り整然と並んでいる。
 
 「鳥羽・伏見の戦い」で路上にうち捨てられたままとなっていた会津藩兵の遺骸を、あらゆる迫害を恐れずに、収容し、黒谷に埋葬した侠客がいた。晩年、年老いても墓守としてその身を会津藩に捧げた。墓地の西側にある西雲院境内に彼の墓がある。
 
 

木造明智光秀座像

  京都市右京区京北周山町 慈眼寺蔵

 2020年(令和2年)の NHK大河ドラマが明智光秀に決まり、明智光秀が築いた周山城が脚光を浴びている。学生時代からの友人で今回も時代考証を担当する小和田哲男氏(静岡大学名誉教授)を「周山城跡を守る会」のメンバー達と城跡を案内した。

 山城全体が総石垣の城郭で、至る所で破壊されているが、森林に残る巨大山城である。
明智の時代か?豊臣の時代か?総石垣を築いたのか分からないが、一度は訪れたい山城である。

 周山城の麓にある慈眼寺の住職さんのご好意で、釈迦堂に安置されている木造明智光秀座像を拝見することができた。眉をつり上げ、眼を大きく見開いて正面をにらみ、口を固く結んだ厳しい表情である。鳥帽子に鉢巻、直垂、長袴、足袋をつけ、左腰に脇差をつけ、右手で扇子を握る。
像の表面は、墨と思われる黒色顔料で塗られている。像には明智の家紋である桔梗紋が透けて見える。もともとは彩色像であろうが、逆臣とされた光秀の像を村人が隠して祀っていたため、黒く塗りつぶしたと思われる。

 眉をつり上げ、眼を大きく見開いて正面をにらみ、口を固く結んだ厳しい表情である。
烏帽子に鉢巻、直垂、長袴、足袋をつけ、左腰に脇差をつけ、右手で扇子を握る。

 像の表面は、墨と思われる黒色顔料で塗られている。像には明智の家紋である桔梗紋が透けて見える。もともとは彩色像であろうが、逆臣とされた光秀の像を村人が隠して祀っていたため、黒く塗りつぶしたと思われる。
 
 

  

雨 庭

   四条堀川南東角

 京の都には道と道が交差する四ツ辻が多くある。そこには人々がすれ違いお互いに心触れあう場所でもあった。京都も時代には逆らえずにビルとビルが交差する場所は、コンクリートジャングルの様相を呈している。
 ある時、市バスから外を見下ろしていると、コーナーが庭園になっている空間が見に入ってきた。直ぐにバスを下車し、取材を試みた。その場所は、四条堀川交差点の南東角であった。説明板には「雨庭」(あめにわ)とあった。

雨庭と言い、ほっこりする空間である

四条堀川交差点の南東角

雨庭のような四ツ辻が増えることを期する

 「雨庭」とは、地上に降った雨水を下水道に直接放流することなく一時的に貯留し、ゆっくり地中に浸透させる構造を持った緑地のことである。修景・緑化の推進の他、雨水流出抑制、水質浄化、ヒートアイランド現象の緩和などの効果が期待されている。京都の社寺では、この雨庭機能取り入れた美しい庭園が古くから造られてきたのです。

 この雨庭では、京都近辺の山から産出した山石を多く使用している。加茂七石の一つであり、京都を代表する銘石である貴船石が庭石として用いられている。
 
 

アンモナイト化石

   京都大丸・高倉通から地下一階に入る

 京都大丸の東側の通り高倉通から地下一階に入ったところの「ヴォーリズ飾灯具」陳列ケースの壁面に下図の写真のアンモナイトが見られる。
 平成14年に全面改装時、一部その当時のままのイタリア産大理石が残されました。その中にアンモナイトのきれいなうずまき状が確認できます。

うずまき状のアンモナイト

うずまき状のアンモナイト

高倉通から地下一階に入る

 アンモナイトは、古生代シルル紀末期から中生代白亜紀末までのおよそ3億5000万年前後の間を、海洋に広く分布し繁栄した。頭足類(タコ・イカの仲間)の分類群の一つ。全ての種が平らな巻貝の形をした殻を持っているのが特徴である。

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この記事を書いたKLKライター

自称まちの歴史愛好家
橋本 楯夫

 
昭和19年京都市北区生まれ。
理科の中学校教諭として勤めながら、まちの歴史を研究し続ける。
得意分野は「怖い話」。
全国連合退職校長会近畿地区協議会会長。

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