その物語は必ずしもサクセスストーリーばかりではありません。
むしろ失敗や挫折によって磨かれたと言われる方が数多くいらっしゃいます。
そこから得た教訓が自らの信念となり、やがて経営「理」念に。
社長が社長である前に人として何を大切にしているのか、それをどう経営に活かしているのか。
それを言葉として紡ぐことで社内外への発信はもちろん、ご本人もあらためて自分を見つめ直す。
「社長の理」の視点はそこにあります。
また、京都には学生や観光客など人々を惹きよせる有形無形の引力があり、企業もまたその摂理に従うかのように東京や海外から京都への進出を窺っています。
それは、京都の企業にとってチャンスでもあり、アゲンストにもなり得ます。
そんな「難儀な街」京都の経営者物語をご紹介します。
幼いころから家業を継ぐ 強い意志
父であり創業者である塩野忠雄(現会長)が容器販売を生業とする旭合同株式会社を起業したのは今から50年前、塩野忠人(現社長)が誕生する3ヶ月前であった。当時は祖父母の家に社屋があり忠人にとって会社を継ぐことは幼い頃から「当たり前のこと」であったという。
高校・大学時代は山科少年補導委員会学生部で、ひと夏で3,000人位地域の子どもたちをキャンプに連れていくボランティアに精を出した。年下に対して面倒見がよい塩野社長の兄貴肌はこの頃から変わらない。
やがて大学を卒業する頃に会社は社員30名売上21億円の企業に成長していた。「これから旭合同のビジネスは世界が舞台となる。」そう予感した忠人は父の勧めもありアメリカへの語学留学を決意する。あえて日本人の多い西海岸を避けてフロリダへ進学。当然ながら教師も学生もルームメイトも外国人ばかり。ホームシックにかかったこともあったという。「世界中どこに行ってもなんとかなる。」忠人の脳内グローバリズムはこの留学によって育くまれた。この時アメリカ人が日常的にサプリメントを飲む姿を目の当たりにしていた忠人。それが将来の自社の転機になるとはこの時はまだ知る由もなかった。
社長の息子が来た!
1年間の留学を経て旭合同株式会社に入社した忠人はほかの新人社員と同じように出荷業務を担当した。商品であるボトルとキャップと中栓の組み合わせは何千通りとある。その組み合わせを知る唯一のベテラン社員が忠人の入社後1カ月で辞めた。社長の息子である自分が入社してきたことでやりにくかったのか?いずれにせよお客様からのクレームに泣きながら1つずつ組み合わせを覚える日々が続いた。
続いて忠人は東京営業所の営業職に志願して赴任した。バブルがはじけたとはいえまだ好景気で、求人をしてもなかなか人が集まらない時期であった。ここでも「社長の息子が来た」と当時は必ずしも歓迎されざる雰囲気があったと振り返る。また知識不足や若さゆえの未熟さからお客様に迷惑をかけたり取引先を失ったりそんな失敗も幾度か経験した。それでも取引先に怒鳴られながら懸命に仕事を覚えた修業時代であった。しかし仕入先の方が強い商慣習に疑問を抱いたのもこの時期であった。「アメリカの容器を仕入れることができたら…」そんな思いが忠人を動かした。
これからの旭合同はボーダーレスになる
東京で知り合ったアメリカ人の友人・ジムがアメリカでの容器メーカー探しを手伝ってくれた。なんとか仕入れ先は見つかった。日本製にはない斬新なデザインと機能、これだ!と思った。しかし日本の顧客が求める品質とアメリカのメーカーが提供する品質には相当な乖離があった。ボトルを500本発注したら510本入りで届いた。不良品が少々混ざっていても余分に納めているから問題ないでしょう…、これがアメリカ的な考え方であった。今まで日本にはない魅力的な商品であるにもかかわらず、自社が主導権を持って交渉ができる。これは行ける!その確信どおり、ある顧客が買ってくれたことをきっかけにアメリカ製ボトルは爆発的に売れ始めた。「いよいよ旭合同はボーダーレスになる。」忠人は次第に確信を自信に変えていった。
もちろん失敗もたくさんある。台湾から仕入れた運動器具を通販会社に卸したがネジの調整ができずにクレームの嵐に。ここでも海外と日本の品質の差を思い知らされることになる。しかし「どんな商品を扱ってもかまわないじゃないか」という旭合同の自由な商気質は当時の塩野忠雄社長と塩野忠人現社長が築いてきた会社の歴史そのものである。
自分が悪かったのかもしれない…
健康食品市場は相変わらず拡大を続けていたが、忠人は再びジムの協力を得てサプリメント原料の輸入に踏み出す。容器だけでなく中身も扱えれば営業1人当たりの売り上げは倍になるはず。しかも容器だけ売るより付加価値は高い。考えるは易いがこれまでのお客様の商売の領域に立ち入ることにもなる。社内では古参社員を中心に反発もあった。「また社長の息子か…」。
所属していた京都商工会議所青年部で松下政経塾塾長の話を聞いたのはこの頃であった。政治家志望で入ってきた塾生に徹底的にトイレ掃除をさせる政経塾。「これか。」忠人は翌日から1人で会社のトイレ掃除を始めた。ピカピカになった便器に映った自分の顔を見て「みんながついてきてくれないのは俺が悪いんかな」と情けない思いもした。トイレ掃除を始めて半年、忠人に共感してトイレ掃除を始める社員がでてきた。同時にサプリ原料の販売実績も右肩上がりになり営業面でも忠人についてきてくれる社員が増えてきた。
業態のボーダーを取っ払おう!
「社長(当時の忠雄社長)と一緒にお客様や仕入先を訪ねたこともなければ、自分の行動に制約を受けたこともない。」忠人社長はそう振り返る。父である忠雄社長(当時)はこの頃の忠人の苦悩をどのような気持ちで見守っていたのだろうか。やがて忠人は次の矢を放つ決断をする。サプリメントの原材料仕入れだけでなく、その充填包装も手掛けようというのである。多くのサプリメーカーは自社ラインで間に合わない充填包装を外注していた。容器+原材料+充填を自社で一括受注できれば1人当たりの売り上げは3倍にできる!今回はもう社内で反対する人間はいなかった。
社長に就任。「旭合同の未来は希望に満ちています。」
忠人が23歳から23年間所属していた京都商工会議所青年部(YEG)。ものの見方、企画のヒントから会議の進め方まであらゆることを学ぶ場であった。300人の経営者がいれば300人の価値観や方法がある。とんがって粗削りな自分が人とぶつかり合いながら磨かれていくのを感じた。学生時代の少年補導学生部で育まれた仲間を想う気持ち、留学とビジネスで培った国際感覚、そしてYEGで磨かれた異業種の発想。この3つが今日までの塩野忠人社長のアクションのバックボーンにあったのは間違いない。
旭合同株式会社の会社案内にある「なんで旭合同で○○やねん」は自社の事業領域の広がりを示唆するフレーズだが、YEG活動でヒントを得た言葉でもある。かくして平成22年に社長に就いた忠人は業容の多角化にさらにドライブをかける。フリーズドライ食品を手掛けるブランケネーゼ株式会社に対するM&Aである。従来の業界とはまったく異なる食品業界への参入、それは今まで輸入に偏っていた海外取引を自社製品の輸出に転ずる商機とも捉えている。社長就任の時にみんなに誓った言葉は片ときも忘れることはない。
この会社が、この仕事が大好き。
そんな忠人社長を社員はどう見ているのか。「自分の考えの未熟さを悟らせてくれる存在」「怒られても愛情を感じる」「賑やかで声が大きい裏返しの寂しがり屋さん」「正直コワいですが、相手に悟られないように気配りする優しい人」。これまでの忠人社長の生きざまがそのまま社内にも浸透しているのを感じる。
忠人社長本人は会長と社員への想いをこう語った。「会長は先見の明を持つ決して折れない強靭な精神力の人」。家に帰っても仕事のことで言い合うことはあるが、自分がやろうとしたことについてはいつも賛同し応援してくれたという。親子事業継承ならではの相互信頼が確かにそこにある。
また社員さんに対しては次々に独自の発想で事業を進めてきた自分についてきてくれたことへの感謝の気持ちがことのほか強い。「この会社に入って出会ったすべての人に感謝しています。それは辞めていった人に対しても同じ気持ちです。」
忠人社長が掲げる会社のスローガンはボーダーレス。事業展開のボーダー(境界)をなくすことだけでなく、忠人社長の心の中に壁がないことを顕わしているのかもしれない。「この会社が、この仕事が大好き。」と言い切る熱血社長が創業50年を超えて次の展開を睨む。