あれ、そういえば西陣ってどこ?

西陣織といえば高級織物の代名詞であり、長らく「京の着だおれ」文化を支えてきました。同時に西陣は地名としても有名です。でもですよ、京都の住所をすべて洗いだしても「西陣」の2文字はただの1つも見つけられません。これってご存知でした?他の有名な地名、たとえば「祗園」や「嵐山」はその名がしっかり入った住所があるのに、西陣だけはありません。では西陣が単なる俗称かというとそうでもなく、「西陣郵便局」や、ごく最近まで「西陣警察署」があったように、オフィシャルに使用される不思議な名称です。

不思議といえば西陣とはいったい、どこからどこまでを指すのでしょうか。地元の方でも案外、答えられない方が多いのでは?それもそのはず、「ここからあそこまでが西陣だ!」と正式に定められている訳ではないからです。どこが西陣かは人によってバラバラ、つまりすご~く感覚的なものです。そこで、私なりの解釈を講じたいと思いますが、それを語るためにはまず西陣の歴史を紐解く必要があります。

 

どうして「西陣」って呼ばれているの?

そもそもナゼ「西陣」と呼ばれるようになったのか。

その起源は応仁の乱にさかのぼります。キッカケは室町幕府の次期将軍を争った足利家のお家騒動でした。そこへ大物守護大名の細川氏と山名氏が介入したことで、それぞれ東軍と西軍に分かれての全国的な戦いに拡大します。その際、西軍総大将の山名氏は現在の堀川今出川を北上したあたりに陣をかまえました。「西」軍の「陣」、これが西陣誕生の瞬間です。現在もこの地は「山名町」としてその名残りを留めています。

西陣界隈は、平安時代の末期から大蔵省織部司、つまり織物の役所がおかれるなど、もともと織物が盛んな地域でした。応仁の乱では堺などに疎開(?)していた職人たちがこの地に戻った際に、西陣の名にちなんで「西陣織」と呼ばれるようになりました。西陣織は朝廷からも認められ、京都を代表する一大産業に発展。その最盛期には、一日で千両の売上をあげたといわれる今出川大宮の一帯が「千両ヶ辻」と名づけられ、現在も京都市から景観整備地区に指定されています。

約20年前の千両ヶ辻界隈

約20年前の千両ヶ辻界隈

結局、どこからどこまでが西陣?

さて、サクッと西陣の歴史をふり返ったところで、「西陣とは、いったどこからどこまでを指すのか」問題に戻ります。私なりの解釈はこうです。先ほどの千両ヶ辻を中心に、東は堀川通、西は七本松通、南は中立売通、北は鞍馬口通。この4つの通りで囲まれた長方形を西陣とします。このあたりを歩くと町家が多く並び、「○○織物」の看板が散見されます。20年くらい前までは「カシャン、カシャン」という機織の音が街のBGMでした。

次に西陣の範囲を拡げてみると、新町通~西大路通、丸太町通~北大路通、といわれる方もいます。しかし、西大路を西陣と呼ぶのはいささかムリがあります。実際はその1筋東の紙屋川が、その線引きラインになります。秀吉が築いた御土居の西端ですね。また、千本北大路はギリギリ西陣かもですが、北大路堀川となると、当地で毎日働いている私からしても、ここを西陣と呼ぶには抵抗があります。広義の西陣は長方形ではなく、デコボコした形になりそうです。

このように、どこまでを西陣と呼ぶか、何をもって西陣とするのかには、異論がたくさんあるかと思います。でも、それでいいんです。ディズニーランドでミッキーマウスを何十匹もとい、何十人見ようとも「あなたの心の中に1人だけ」といわれるように、一人一人の心の中にそれぞれの西陣があるわけです。なんだか大仰な話になりましたが、これにて西陣論の結びといたします。

(編集部 吉川哲史)

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