亀山城(亀岡城)

天正5年(1577年)50歳、光秀は丹波攻略の拠点とするために丹波亀山城を築城。京都から丹波を経て、続く山陰街道の要所として栄えた。

光秀は、周辺に点在していた村々を城下町に移転させ人や商人が集まる城下町づくりを
行った。ただし、現在に残る城は慶長15年(1610年)、天下普請によって大改修された姿であり、光秀時代の遺構は残されていない。現在の亀岡に通じる街づくりの原点は、光秀の築城にあると考えられている。

丹波平定の拠点とするため、光秀により天正5年(1577)頃に築城された。下3分の1程度は光秀時代に積まれたとされる

天正10年(1582年)6月1日 亀山城から1万3千の軍を率いて出陣し、途中で「敵は本能寺にあり」と発し、明け方5~6時頃本能寺で主君織田信長を自害に追込んだ。
その原因は諸説あるが、単なる怨恨だけではない。
南郷公園には光秀の銅像があり、足元の太い針金のような造形物は、亀岡盆地で良く発生する朝霧がデザインである。

令和元年(2019)ふるさと納税などの寄付により建立された像の足元には亀岡市特有の「朝霧」が配置されている

周山城

周山城石垣

周山城石垣

周山城は光秀が東丹波の支配拠点として築いた城。高さ6mに達する高石垣は、光秀時代の石積み技術がわかる貴重な遺構だ

周山 慈眼寺 釈迦堂 光秀座像

周山では善政を敷いたので像をつくったが、逆臣と言われたので墨で黒く塗って像を守った。慕われる領主であった。

 

本能寺

天正10年(1582年)55歳、亀山城を出陣し、本能寺で信長を討ち、次いで二条御所の信忠を攻める。光秀が逆賊・謀反人というキャラクターは後でつくられた。

京都市役所の南にある現在の本能寺は、変後に秀吉によって移転・再建されたものである。明智軍に襲撃され焼失した本能寺は、現在の元本能寺南町付近にあった

大山崎の合戦地

光秀の三日天下(実は11日)の原因は、非常識な秀吉を予測できなかったのが、誤算である。恵解山(いげのやま)古墳跡は、光秀が本陣を置いた場所である。
山崎で秀吉軍と戦闘となり敗れ、坂本に向かう途中、一揆の農民に殺害される。

光秀が本陣を置いたと推定される恵解山古墳跡

光秀が本陣を置いたと推定される恵解山古墳跡

墳丘から火縄銃の鉛弾が多数出土している

光秀本陣の推定地 境野1号墳

光秀本陣の推定地 境野1号墳

天王山と古戦場址の碑

天王山と古戦場址の碑

勝龍寺城

光秀の娘・細川ガラシャが細川藤孝の長男忠興と新婚生活をしたのが、勝竜寺城であった。

山崎の戦いのとき、最後に明智光秀が拠ったのが、この勝竜寺城であった

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この記事を書いたKLKライター

自称まちの歴史愛好家
橋本 楯夫

 
昭和19年京都市北区生まれ。
理科の中学校教諭として勤めながら、まちの歴史を研究し続ける。
得意分野は「怖い話」。
全国連合退職校長会近畿地区協議会会長。

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