茶道とは。何モノか。 その5「大坂 堺 織田信長と茶の湯政道。」
名物開きの茶事が終わると酒宴になり、妙覚寺より織田信忠が来訪
し、信長、信忠親子は酒を飲み交わし、深夜になって信忠が帰った後
も、信長は本因坊算砂と鹿塩利賢の囲碁の対局を見物し、しばらく後
に就寝した。
是非に及ばず
六月二日曙(午前4時)明智光秀は3,000余騎の寄手で、本能寺を完全に包囲した。信長や小姓衆は、下々の者の喧嘩だと思った。しかし、暫くするとその者たちが喊声を上げ、御殿に鉄砲を撃ち込んできた。「こは謀反か。如何なる者の企てぞ。」と、信長は蘭丸に尋ね、見に行かせ「明智が者と見え申し候。」と報告を受け、織田信長は、「是非に及ばず」と、一言、言った。
信長は弓を持ち戦ったが、どの弓もしばらくすると弦が切れ、次に槍を取って敵を突き伏せて戦うも肘に槍傷を受け内に退いた。女房衆に「女はくるしからず、急罷出よ」と逃げるよう指示を出し、手を合わせ火がかけられた殿中の奥深くに入り、内側から納戸を締め、腹を切った。
「是非に及ばず」本能寺で織田信長が自害する直前、最後に残した言葉。
「是非」とは、善・悪・好・悪、有・無と言った、全ての相対的判断を言う。
「来たって是非を説く者は、便ち是非の人」とある。あれこれ思い巡らす者は、結局二元論に陥り、ものの本質に直入出来ない。「是非とも願う」と言った現代用法は自己中心的な欲求を求めるものなので、混同してはいけない。
下天は夢か
人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり一度生を享け、滅せぬもののあるべきかこれを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ。織田信長は幸若舞の演目 「敦盛」この節を特に好んで演じた。
「人間五十年」人間(じんかん、又は、にんげん)五十年」は、人の世(人間世界)の意。 「化天のうちを比ぶれば」化天は、六欲天の第五位の世化楽天で、一昼夜は人間界の800年にあたり、化天住人の定命は8,000歳とされ、「下天」は、六欲天の最下位の世で、一昼夜は人間界の50年に当たり、住人の定命は500歳とされる。信長は「人間」を「人の世」と云う意味で使っていた。「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」は、「人の世の50年の歳月は、下天の一日にしかあたらない」という意味になる。
現代において、当時の平均寿命から「人の一生は五十年に過ぎない」という意味と、誤って説明される場合があるが、この一節は天界をと比較対象することで人の世の時の流れの儚さについて説明している。人の一生が五十年と言っているわけではない。
人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり一度生を享け、滅せぬもののあるべきかこれを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ。は、平家物語の祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理(ことわり)をあらわす。
諸行無常(しょぎょうむじょう)仏教用語で、この世の現実存在はすべて、すがたも本質も常に流動変化するものであり、一瞬といえども存在は同一性を保持することができないこと。「諸行」は、この世の一切の事物と現象を指し(有為法)「無常」とは、一切は常に変化し、不変のものはないという意味である。
全ての現象とは、それぞれ互いに多種多様な因果関係を持ちつつ、未来から現在に現れ、現在から過去へ過ぎ去る、という無数の流動生滅と離合集散織りなすところこそ、われわれの生きる有為転変の世界なのである。
【茶道とは。何モノか。シリーズ】
第1回「茶道とは。何モノか。」第2回「わび、さびの誕生」
第3回「茶の湯の成立」
第4回「世界の港湾都市大坂堺」
第5回「大坂 堺 織田信長と茶の湯政道。」◀︎今ここ
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昭和44年(1969年) 京都 三条油小路宗林町に生まれる。
伏見桃山在住
松尾株式会社 代表取締役
松尾大地建築事務所 主催 建築家
東洋思想と禅、茶道を学ぶ。
|禅者 茶人 建築家|茶道/茶の湯/侘び寂び/織田信長/村田珠光
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