お正月が明けると、いよいよ受験シーズンの到来ですね。受験といえば学問の神様・菅原道真が祀られる北野天満宮へのお参りが鉄板。ふだんは神社にご縁のない人でもこの時ばかりは神頼みでお参りする方も多いと思います。

ところで、なんで菅原道真は学問の神様といわれるのか、ご存じでしょうか?そこには「政争」「怨霊」といった、雅やかなイメージの平安時代とは対極ともいえる言葉で彩られる悲劇がありました。そして、道真に訪れた皮肉な運命とは何だったのでしょうか?

菅原道真像

菅原道真像

天才児道真、出世街道をひた走る

月夜見梅花 
月耀如晴雪 
梅花似照星 
可憐金鏡転 
庭上玉房馨

これ、何かおわかりですか。菅原道真が5歳(数え)のときに詠んだとされる漢詩です。5歳ですよ、5歳。ひらがなが書けたら親が大喜び、じーちゃんばーちゃんなら狂喜乱舞する年齢です。さすが、学問の神様ですね。

ちなみに現代語訳すると、こんな感じです。

今夜の月の光は、雪にお日さまがあたった時のように明るく、その中で梅の花は、きらきらと輝く星のようだ。なんて素晴らしいのだろう。空には月が輝き、この庭では梅の花のよい香りが満ちているのは。

うーむ、現代語でみても5歳児が書いたものは思えません。ま、実際のところは聖徳太子が7人の話を同時に聞いたという逸話同様、マユツバものの話ではありますが、道真が幼少のころから学問に秀でていたことは間違いありません。

道真はその後も勉学に励み「文章博士(もんじょうはかせ)」という学者としての最高位を得ます。また、学問だけではなく弓の名手でもあり、讃岐国の長官として善政を行うなど文武両道の政治家となります。その腕を宇多天皇に買われた道真は、右大臣に抜擢されます。右大臣は今でいえば副総理か内閣官房長官くらいのナンバー3に入る大物ポストです。

その右大臣菅原道真の大仕事は遣唐使の廃止を決定したことでした。遣唐使、なんか歴史で習ったような言葉ですね。当時の最先進国である中国・唐の国から文化や学問・技術を学ぼうと派遣された一団のことです。しかし、唐の国が衰退すると、もはや学ぶことはないと考えた道真の決断でした。これが後の悲劇につながろうとは本人も思いもしなかったことでしょう。

出る杭は打たれる…

さて、この時代の貴族は藤原氏の全盛期でもあります。藤原道長が詠んだ「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」のゴーマンソングは有名ですよね。藤原氏は自分の娘を天皇に嫁がせることで権勢を得てきました。産まれた子どもを天皇の座にすえ、自らは天皇の外祖父として摂政あるいは関白となり「天皇代行」の権限をほしいままにしていたのです。

そんな藤原氏にとって、天皇に寵愛される菅原道真の存在は、目障り以外のなにものでもありません。そこで左大臣・藤原時平は道真を陥れようと画策します。火のないところに煙をモクモクとたて、道真のあることないことを吹聴しまくり、べっちょりネトネトの濡れ衣を着せます。結果、醍醐天皇は道真を九州大宰府に左遷します。大宰府とは、中国をはじめとする大陸諸国との窓口となる機関で、今でいえば外務省といったところでしょうか。ある時期まではエリートの出向先でもありました。しかし、この頃には中国との国交が断たれていたため、することがない閑職となっていました。

でもよく考えてください。大宰府の仕事をなくしたのは誰だったのか?
そう、遣唐使を廃止した菅原道真ご本人です。道真は自らが閑職とした役所に左遷された訳で、自分がつくった落とし穴にはまってしまったようなもの。これを皮肉と言わずしてなんぞや!西へ歩をむける彼の胸中はいかばかりだったでしょうか。

タ~タ~リじゃ!!

大宰府に流された菅原道真はその2年後に失意のまま亡くなります。(ちなみに毎月25日が「天神さん」といって縁日になるのは、彼の誕生日であるとともに命日でもあるためです)さて、謀略を仕組んだ藤原氏としては「してやったり!」といったところだったのでしょうが、その数年後に悲惨な事件が連打で起こります。張本人の時平を含む藤原一族が次々と亡くなるのです。それも泥沼で溺れ死んだり、雷が落ちて焼け死んだり、といった変死怪死が続出するのです。さらに御所清涼殿の柱に雷が直撃し多くの貴族が焼死。この事件から間もなく道真に左遷を命じた醍醐天皇も亡くなりました。

「これは道真公のタタリにちがいない!」と人々は恐れおののきます。当時は怨霊やタタリが本気で信じられていた時代でしたから、そのビビり度合はハンパないものでした。そこで道真のタタリを解くために、彼の冤罪を認め右大臣に復帰させます。さらに道真を神として祀る神社を造りました。それが北野天満宮です。

この時はまだ学問の神様としてのイメージは薄かった道真ですが、江戸時代に彼の左遷事件「昌泰の変」を題材にした芝居や歌舞伎が流行るようになると、日本人独特の判官びいきの感情を誘い、道真は悲劇の主人公として人気を博しました。さらに各地の寺子屋では、道真を描いた「御神影」を掲げて、学業成就や武芸上達が祈られるようになります。こうして、怨霊としての性格は薄れ「学問の神さま」としての道真が定着するようになりました。現在、北野天満宮の所在地である今出川通には、京都大学と同志社大学がキャンパスを構えています。全国から多くの学生が集う両校が、学問の神様が鎮座する通りを選んだのは単なる偶然だったのでしょうか?

北野天満宮を「北野さん」と呼ぶワケ

北野天満宮の楼門を入ってまっすぐ進むと「地主社(じぬししゃ)」と呼ばれる社があります。北野の地は陰陽道でいうところの「乾」として、平安京の守護をつかさどってきました。地主社は、天と地すべての神々を意味する「天神地祇(てんじんちぎ)」をお祀りしています。天神=天の神であり、地祇=地の神です。

この地主社にむかって天皇が祈りを捧げるとき、北野の上空には北極星が輝くことから、北野は「天のエネルギーが満ちる聖地」として信仰されるようになります。北野天満宮が、天神信仰の発祥として「天神さん」と呼ばれるのは、天空をつかさどる天神の社であるからです。

ちなみに、地主社は北野天満宮の創建よりも前から鎮座しているため、北野天満宮の本殿は、この地主社を避けてわざと西に道を折れた先に建てられています。

北野天満宮 摂社 地主社

北野天満宮 摂社 地主社

さて、菅原道真の人生を皆さんはどのように思われますか?エリート街道まっしぐらの人生から、出る杭は打たれるの言葉通りに急転直下の左遷。そこから学問の神さまとなっての名誉挽回。波乱万丈の生涯は、ご本人としては不本意だったかもしれませんが、そのドラマティックな生き様があったればこそ北野天満宮が造営されたともいえます。

現在、菅原道真をご祭神として祀る神社は全国に12,000あるといわれていますが、もしその総元締めである道真がいなければ、全国の受験生は何を心の支えに試験に臨めばよいのでしょうか。「人は死して名を残す」を体現した菅原道真公の生涯は幸せなものだったと私は思います。

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この記事を書いたKLKライター

八坂神社中御座 三若神輿会 幹事 / (一社)日本ペンクラブ会員
吉川 哲史

祇園祭と西陣の街をこよなく愛する生粋の京都人。

日本語検定一級、漢検(日本漢字能力検定)準一級を
取得した目的は、難解な都市・京都を
わかりやすく伝えるためだとか。

地元広告代理店での勤務経験を活かし、
JR東海ツアーの観光ガイドや同志社大学イベント講座、
企業向けの広告講座や「ひみつの京都案内」
などのゲスト講師に招かれることも。

得意ジャンルは歴史(特に戦国時代)と西陣エリア。
自称・元敏腕宅配ドライバーとして、
上京区の大路小路を知り尽くす。
夏になると祇園祭に想いを馳せるとともに、
祭の深奥さに迷宮をさまようのが恒例。

著書
「西陣がわかれば日本がわかる」
「戦国時代がわかれば京都がわかる」

サンケイデザイン㈱専務取締役

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