豊臣秀吉  関白となり天下を統一した

武士が支配する世へ

「検地」と「刀狩」で農民を支配し、戦いのない平和な世を目指した
関白の地位を利用して大名を従わせ、天下を統一した
関白とは、天皇を補佐する地位を言い、太閤とは関白をやめた人を指す
武家政権の礎となる新しい支配システムを確立する
金銀の鉱山を直轄し、大坂。京都・伏見・堺・長崎などをも直轄した都の復興を勧め、御土居、聚楽第、伏見城を造営する
62歳 病死?

 

遺骨のゆくえ?

 慶長3年(1598年)9月18日に秀吉が62歳伏見桃山城で亡くなる。秀吉の死はしばらく秘密にされたため遺体は火葬されずに伏見城の一室に安置された。秀吉の遺言により翌年に東山の阿弥陀ヶ峰に埋葬され、壮麗壮大な神社が建てられ秀吉を「豊国大明神」として祀られた。この神社は後に豊国神社と命名された。

大阪夏の陣で豊臣家滅亡後に徳川家康によって豊国神社は取り壊された。秀吉の正室の北政所(寧)の願いで社殿は残されたが、朽ちはてるにまかされていた。以降、江戸時代約250年間は荒れ放題のまま放置されていた。

 明治元年(1868年)に明治天皇の勅命により豊国神社の復興を命じられた。明治13年(1880年)に社殿が方広寺の大仏殿跡地に建てられ豊国神社は復興された。

東山三十六峰の一つ阿弥陀ヶ峰遠望

東山三十六峰の一つ阿弥陀ヶ峰遠望

京都市立開睛小中学校屋上より

 明治30年(1897年)豊国神社境外の阿弥陀ヶ峰山頂に五輪塔が建てられた。翌年には太閤三百年祭りが行われ、その時の工事で土の中から素焼きの壺が見つかり、中から秀吉と思われる塩漬けにされた遺体が発見された。遺体はその後丁寧に葬られた。阿弥陀ヶ峰は東山三十六峰の一つで、円錐状の山 標高196m、階段数は565の石段である。

高さ約10ⅿの巨大な五輪塔

高さ約10ⅿの巨大な五輪塔

 遺骨はその後どのようになったのかは定かではないが、秀吉の歯が一本豊国神社宝物館に大事に保管展示されている。秀吉が生前、賤ケ岳七本槍のひとり加藤嘉明に形見として贈ったものだ。上あごの左側の奥歯で、血液型O型だった。

豊国神社  唐門と秀吉像

豊国神社  唐門と秀吉像

北横の方広寺には「国家安康 君臣豊楽」の銘がある釣鐘がある
大阪の戦いの原因となった

徳川家康   江戸幕府を開いた

戦国から江戸へ

関ヶ原の戦いを制し、朝廷から征夷大将軍に任命され、江戸幕府を成立した
江戸を開発し、100万人の大都会へと変身させ、江戸幕府260年続く礎を築く
一国一城令を出し、武家諸法度を制定
大名は二百数十家あり、幕藩体制を確立
禁中並公家諸法度を定め、朝廷を統制
二条城の造営や寺社に寄進し、都を復興
健康オタク 75歳 病死?

 

遺骨のゆくえ?

 元和2年(1616年)4月17日に駿府城内で死亡した家康の遺骸は久能山の廟所に埋葬、翌元和3年(1617年)3月15日、家康の遺骨を納めた棺は久能山を出発、4月4日に日光に到着。墓所としての奥の院に安置され、盛大な遷宮の儀式が行われた。遺骨の歯などは京都にも分骨されている。

圓光寺 左京区一乗寺 詩仙堂の北側

圓光寺 左京区一乗寺 詩仙堂の北側

四季折々庭園が絶景
竹林や苔の庭園が素晴らしい
家康が伏見城下に学問所を建立し、現在地に移築された

圓光寺 墓地山麓

圓光寺 墓地山麓

東照大権現(家康公)の墓
遺骨の一部歯が埋葬されている

南禅寺の塔頭の一つ 金地院

南禅寺の塔頭の一つ 金地院

家康の遺言で建てられた東照宮
家康の遺髪と念侍仏を祀る
家康の側近であった僧・以心崇伝創建

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この記事を書いたKLKライター

自称まちの歴史愛好家
橋本 楯夫

 
昭和19年京都市北区生まれ。
理科の中学校教諭として勤めながら、まちの歴史を研究し続ける。
得意分野は「怖い話」。
全国連合退職校長会近畿地区協議会会長。

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