コロナ対策の合い言葉「STAY HOME」とともに定着してきたのが「おうちごはん」というコトバ。そこで最近、にわかに脚光を浴びてきたのが、飲食店のデリバリーやテイクアウトですね。なかなか外食もままならない今、お世話になっている方も多いのでは?そのデリバリーのルーツをたどると「仕出し」に行きつきます。京都の食文化を語る上で欠かせない仕出しは、元祖デリバリーともいえるわけです。

そもそも「仕出し」ってナニ?

みなさんおなじみの出前やデリバリーと「仕出し」は何が違うのでしょうか。仕出しをごくごくシンプルに説明すると「自宅など指定された場所に配達される料理」となります。でも、これだと「デリバリーと同じやん?」ってなりますよね。もう少し説明を足します。「食器に料理が盛られた状態で届けられ、その食器の回収までを含むのが仕出し。対して容器が使い捨てパックなのがデリバリー」ではいかがでしょうか。あともうひとつ、大きな違いが。デリバリーは和洋中ジャンルを問いませんが、仕出しは懐石に代表されるように和食が前提となります。

人によって解釈の差はあるでしょうが、仕出しとデリバリーの違いはこんなところでしょうか。しかし、本当の違いはこのようなカタチとして目に見えることよりも、ココロのあり方にあります。目的、あるいは動機といってもよいでしょう。これもザックリと大別しますと、会食や家庭の食事を合理的に済ませたいときがデリバリー。この場合の「合理的」とは、よくいえばお手軽、悪くいえば手抜きということになりましょうか。「今日は疲れたからご飯を作りたくないなあ。ビザでも取る?」てな会話、皆さんのご家庭でもよくあることでは?それに対して、きちんとお客様をおもてなししたい場合が仕出しとなります。


京都流のオモテナシ

もともと京都では、来客の際は家庭料理を出さないのがあたり前とされています。「えっ?それ反対じゃないの?」って声が聞こえてきそうですよね。お家の人が心を込めて作った料理をふるまうことの方が良いように思えます。もちろん、それはそれで真心の表われだと思います。でも京都人の心意気はまた別のもの。そこにあるのは、お客を楽しませ、かつ気を使わせないという思いやりです。それが京都で発展した「仕出し文化」なのです。

仕出しに込められた気持ちはこうです。「料理人の味を居ながらにして堪能してもらうこと。それがせっかくお越し下さったお客様に今の自分ができる最高のおもてなし」ということ。なんとなく茶道の一期一会の精神に近いものを感じますね。それはそのまま京都人の礼儀となります。

いくら材料を吟味し、アレコレと手を加えても家庭料理は素人の粋を出ません。大切なお客様には、熟練の料理人の手にかかったものをお出しするのが、京都流のオ・モ・テ・ナ・シ。京都では来客があれば、1杯のコーヒーでも近所の喫茶店から届けてもらう風習があります。何ごともプロの技(=今できる最高のもの)でもてなすのが礼儀であるという価値観が根付いております。特に洛中ではその傾向が強いようです。


仕出しが気づかいとなるそのワケ

そういった味へのこだわりとともに、仕出し文化には「お客様に余計な気を使わせない」という思いも込められています。たとえば、あなたが上司の家に招かれ、手料理をふるまわれたシーンを想像してください。これって、けっこう気を使いますよね?まず、あなたの両肩には料理をベタぼめしなければならないというプレッシャーがズシリとのしかかってきます。そういうときに限って、作り手は「どーだ!頑張っただろ、私!!」といわんばかりのドヤ顏をしてたりします。こうなると、たとえ「これはアカンやろ…」というようなゲロマズの料理だったとしても「〇〇と□□のハーモニー」だの「舌の上に黄金のピラミッドが立つような…」だの、アニメ『美味しんぼ』顔負けのボキャブラリーが求められる局面となります。


また、仮にその料理が妙なるお味だったとしても、お腹いっぱいになることもあります。でも、せっかく作っていただいた料理を残すのは失礼になりますよね。くり返しますがゲロマズの料理だったとしてもですよ。てゆうか、それを完食するのはほとんど拷問ですよね。

家庭料理には、その家その家の個性があります。ゆえに誰の口にでも合うというものではありません。いっぽうプロと呼ばれる料理人の味付けは、万人向けに作られたものなので、多くの人に美味しいと思っていただけるはずです。さらに、仮に食べ残したとしても「これ、ちょっと辛おすなあ…」などといって料理人のせいにすることができます。つまりお互いに気楽に食べることができるわけです。それが京都人の気使いといわれます。この遠回しな気の使い方が京都独特なんですね。

もっといえば、不満があれば言ってもらった方がありがたい場合もあります。お客様が京都人の場合、不都合があってもその場では黙っていて、後からブツブツ言われることがあるからです。しかもアチコチに言いふらされて、気がつけば親戚中に悪評が広まってた…なんてことも。そんなことの無いように、いわばリスクヘッジの意味も含めて仕出しが重宝されたのかもしれません。お互い京都人のイケズな一面を知っているからこその対処ともいえます。ちょっと目線がナナメ過ぎましたかね…。まあ、そんなこんなも含めて京都流のおもてなしという訳です。

また、ホストとしてお客を招く側も決してラクをしている訳ではありません。お客様の年齢や出身、好み、また旬の食材や料理人の特性など色いろなことを考えて、仕出し屋さんと念入りな打ち合わせをして料理を決めます。そのとき、まちがいなくアタマの中でお客様に想いを「馳」せているはずで、すなわちそれが「ご馳走」となるわけです。さらに、調理や後片付けが不要となることで、お客様とゆっくりとした時間を過ごすことができます。そもそもお客様をお招きするのは、心のふれあいが主で食事は従のはずです。そう考えると仕出しが真のおもてなしとなるのも頷けますよね。


京都人に育てられた仕出し文化

江戸時代の元禄期に始まったといわれる仕出しは、町衆とともに育った文化ともいえます。西陣や室町の大店の主人が昼間、仕出し屋に「今日のええとこ(=おススメ)、何品か持ってきて」と言って注文すると夕方には料理が届けられている、そんな光景が昔はあちこちで見られたそうです。このように仕出し屋はご近所の台所的存在でもあったのです。時には素材から調理器具まで持ちこんで、その家で調理することもありました。

上七軒の石畳。花街と仕出屋は切っても切れない関係。

上七軒の石畳。花街と仕出屋は切っても切れない関係。

彼らも心得たもので、同じ料理でもお客様の好みによって味付けを変えるなどの心配りがありました。また、仕出しは調理してから食べるまでの時間が長いため、冷めてもおいしく食べられるように緻密な計算が必要とされます。くわえて旦那衆は舌が肥えていて、何かと仕出し屋に厳しい注文を入れます。でも、その要望に応えることで料理人の腕が鍛えられました。そうして築きあげた信頼があるからこそ、大切なお客様を招く際に安心して料理を任せることができるわけです。このように仕出し店とお客の間には確かな信頼関係があり、それが京都の食文化を作りあげたとも言われています。

また、仕出し文化には京都人のお金の使い方も現れています。日ごろは質素な生活をしていても、節目のお祝い事や来客など「ハレ」の日は思い切って贅沢しようという京都人気質が仕出し文化を発展させました。このように仕出しは地域の暮らしや年中行事とも密接にかかわってきました。仕出しが京文化の一端といわれる由縁です。しかし、昭和平成を経た令和の現代、核家族化や人と人の付きあい方にも変化もあり、残念ながら仕出し屋の数も減ってきています。


「家庭で味わう」という贅沢。

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