今宮神社のなりたち

当社地には平安京建都以前より疫神を祀る社があった。平安京が栄える一方、人々は疫病や災厄に悩まされ、これを鎮めるため紫野御霊会が営まれた。正暦5年(994年)一条天皇は、当社地の疫神を神輿に移して船岡山に安置し、悪疫退散を祈った。これが今宮祭の起源である。そしてこの時、綾傘に風流を施し囃子に合わせて唄い、悪疫を鎮めた。これがやすらい祭りである。長保3年(1001年)疫神は船岡山から再び現在の地に奉還され、新たな社との名である「今宮」と名づけられた。これが今宮神社の起源である。

明治42年測量の2万分の1地形図を見ると、周囲を広葉樹林、竹林、茶畑に囲まれて「今宮神社」の敷地が黒く塗りつぶされている。勿論、北大路通りからの参道も描かれていない。下図の大正11年測量図の3千分の1京都市都市計画基本図を見ると、紫野中学校(現紫野高等学校)の北側に明らかに「今宮神社」建物の配置も確認できる。周囲は今の様に住宅街にはなっていない。

神社抄史によると大正15年に楼門建立・南参道造成とあり、その頃に今の様相ができたと考えられる。

今宮神社楼門

今宮神社楼門

表参道

表参道

本社・摂社

健康長寿・良縁開運・厄除のご神徳を求めて、西陣の氏神として崇敬を集めている。 ご祭神は…
本社 
・大己貴命(おおなむちのみこと)
・事代主命(ことしろぬしのみこと)
・奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)
摂社(本社に縁故の深い神を祀った神社)
・素戔嗚命(すさのをのみこと)

氏子地域は、東は堀川通り・西は
七本松通り・南は二条通り・北は鷹峯の広大な地域である。氏子組織は旧19学区域からなり、氏子戸数はおよそ2万で構成されている。正月三が日は多くの氏子の参拝で賑わう。

織姫社

西陣織物の祖神 技芸上達の神
近頃は織姫と彦星の七夕伝説になぞらえた信仰もある。

阿呆賢(あぼかし)さん

神占石と言い、石を叩いたり突いたりすると重くて上らず、撫でたり拝んだりして持ち上げると軽々と上るといわれている。一度試してみるのも一興である。

桂昌院

桂昌院は、江戸幕府3代将軍・徳川家光の側室で、5代将軍・綱吉の生母。西陣の八百屋の娘からシンデレラ的に出世したので「玉の輿」と称された。
京都の荒廃した神社仏閣の復興に尽力をし、今宮神社ではその功績を称え胸像レリーフを建立されている。


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この記事を書いたKLKライター

自称まちの歴史愛好家
橋本 楯夫

 
昭和19年京都市北区生まれ。
理科の中学校教諭として勤めながら、まちの歴史を研究し続ける。
得意分野は「怖い話」。
全国連合退職校長会近畿地区協議会会長。

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