唐突ですが、6月25日は何の日かご存知でしょうか?今から61年前のこの日に昭和天皇皇后両陛下がはじめてプロ野球を観戦されたその試合で長嶋茂雄がサヨナラホームランを放ち、スーパースターとしての地位を不動のものとしました。さて、そんな歴史的な一日からさらにさかのぼること11年、1948年6月25日に生まれたもうひとりのスーパースターがいます。ジュリーこと沢田研二です。意外に知られていないかもですが沢田さんの出身地は京都市、後の世に一時代を築くジュリーは、TOKIOならぬKYOTO CITYで少年期を過ごしました。

実家は左京区、鴨沂高校出身

沢田研二の実家は京都市左京区浄土寺、ざっくりいうと今出川通白川を下がったあたりという説が有力です。ちなみに沢田ではなく「澤田」が本名だそうです。この地で育った彼は第三錦林小学校、岡崎中学校卒業後、鴨沂高等学校に入学します。京都人にとってだんだん身近な存在になったきましたね。「自分はジュリーの後輩だったんだ!」と気づかれた方もいらっしゃるのでは?

高校入学後は空手部に所属する傍ら、四条河原町のダンス喫茶、当時の流行り言葉でいえばゴーゴー喫茶「田園」で、ドアボーイのアルバイトを始めます。やがてステージに立って歌うようになったところ、岸部一徳に誘われ「ファニーズ」というバンドに入り、大阪を拠点に活動します。さらに大阪でのステージを見ていた内田裕也に声を掛けられ一行は東京に行くことに。そして1966年、伝説のグループサウンズ「ザ・タイガース」に名称を変更します。名付け親は作曲家のすぎやまこういち氏。命名の理由は、ネコ科の猛獣のようなしなやかな若さをメンバーに感じたからとか、大阪から来たからタイガースにしたとか、いろいろな説があります。そうそう、言い忘れましたが、このサクセスストーリーの途中で鴨沂高校を中退しています。つまりこの時点で京都とは決別することになったわけです。

ジュリーの母校、鴨沂高校。2年前に改装したばかりのキレイな校舎です。

ジュリーの母校、鴨沂高校。2年前に改装したばかりのキレイな校舎です。

スター街道驀進

その後1970年にタイガースは解散、沢田は新バンド「PYG」に参加し、ショーケンこと萩原健一とツインボーカルを組みます。余談ですが、沢田は刑事ドラマ「太陽にほえろ」にゲスト出演したこともあり、ショーケンに撃たれる役を演じます。さて、PYGで活動したものの当時は「ロックは不良の音楽」というイメージがまだまだ強く、心機一転1971年にソロとしての道を歩むことになります。つまり、ここから「沢田研二」として本格ブレイクするわけです。

その後、「危険なふたり」のレコード(懐かしい響きですね)が65万枚の売上を記録し、初のオリコン1位を果たします。その後もヒットを連発し「時の過ぎゆくままに」が自身最大のヒットとなる92万枚を記録。このころザ・ピーナッツの伊藤エミと(最初の)結婚をしています。結婚式は比叡山延暦寺で挙げたそうで、このあたりに京都人としての沢田研二を感じることができますね。

その後も快進撃を続ける沢田研二は、1977年に「勝手にしやがれ」でついにレコード大賞を受賞。この年のレコ大の視聴率は50.8% という歴代最高記録をマークしています。今の紅白よりも上なんですね。さらに翌1978年にはレコ大最優秀歌唱賞を受賞、アーティストとしての実力を示します。さらにさらにこのレコ大から約3時間後には紅白歌合戦で大トリでを担い「LOVE(抱きしめたい)」を歌いあげます。これはポップスロック部門として史上初の快挙でした。ちなみに紅組のトリは山口百恵のプレイバックpartⅡ。演歌主体だった紅白に新しい時代の風を吹きこんだ2人だったわけです。

1等賞ジュリー

ところでこの1978年は歌謡界に大きな足跡を残した歌番組が誕生します。そう「ザ・ベストテン」です。忖度なしに純粋に今流行っている歌をランキングした画期的な番組でした。このベストテンでは黒柳徹子と久米宏の名コンビが出演者との軽妙な会話を引き出すことで番組に花を添えていました。そのトークでは、多くの歌手が日本人独特の謙遜の美徳からか順位への意識を見せまいとする中、ひとり堂々と1位の座を狙うと宣言していたのが沢田研二でした。彼は「1等賞」という独特の表現で「1位じゃなきゃ意味がない」と強いこだわりを見せ、「ダーリング」では堂々7週にわたって1等賞をキープしました。

そして1980年代の幕開けに「TOKIO」をリリースします。このころ注目を浴びはじめたYMOに代表されるテクノポップを取りいれたイントロがなんとも印象的です。ちなみにTOKIOの作詞は糸井重里氏。手帳だけじゃなく、いろいろ手がけておられたんですね。

こうして80年代も突っ走ったジュリーですが、1987年に公演中にステージから転落し重傷を負い入院します。その公演の地が京都だったというのも何かの因縁ですかね。そして昭和ラストイヤーとなる1989年に女優・田中裕子と2度目の結婚をします。その後、平成の御代となった1990年代に入ると「これからは自分のやりたい音楽をやっていきたい」と言ってセルフプロデュース宣言をするなど、独自の路線を歩むことになります。

元祖ビジュアル系アーチスト

沢田研二といえば、ビジュアルアーチストの草分けともいえるほど、ルックスにこだわり続けました。一説によると、テレビで男性の化粧を初めて披露したのがジュリーだとも言われています。「勝手にしやがれ」では、帽子を投げとばすパフォーマンスが話題をよび多くの小学生がマネをしていました。「サムライ」では軍服の下にシースルーの下着を見せるセクシーなイデタチで魅了。

「カサブランカダンディ」ではウイスキーを口に含み霧のように吹きあげ、「OHギャル」ではタバコを咥えながら歌っていたシーンも印象的です。そしてなんといっても「TOKIO」です。パラシュートを背負い、まばゆいばかりの電飾スーツに身を包んだこの衣装、なんと250万もの費用がかかったそうです。私的にはこの奇抜なコスチュームが後の小林幸子や美川憲一に影響を与えたのではないかと勝手に思っています。


ジュリー ≒ 京都人?

さて、ここまでジュリーの活躍ぶりを書いてきましたが、京都出身ではあるものの沢田研二に今ひとつ京都っぽさを感じないと思われる方も多いのではないでしょうか。彼が発する雰囲気、自己主張の匂いがプンプン漂うギラギラとしたアクの強さは、たしかに「平安」「雅」「はんなり」といった言葉を連想させる京都の空気とあわないでしょう。さらに2018年の埼玉におけるコンサート直前の中止騒動は記憶に新しいところで、自分のプライドのために関係者とファンに多大な迷惑をかけたとして物議をかもしました。そういった京都人らしからぬキャラクター、それが沢田研二のイメージでしょう。

しかし、です。京都人ははっきりと言葉にしないだけで、その奥底にはしっかりとした自己主張を備えています。でなければ1000年もの間、都としての権威を維持できたはずがありません。ただ、その主張の表現法には回りくどい独特のものがあり、一見すると主張していないかのように思われます。それが京都人のしたたかさでもあり、同時に京のぶぶ漬け伝説に代表されるように、京都人が誤解される一因ともなっています。さらに埼玉騒動で論じられた「プライド」、これこそ京都人が根っこにしっかりと持っているものです。自分の県に対する想いというか、想いこみの強さという点では京都が1番ではないかと(編集部肌感覚値)。また、プライドというと鼻持ちならないイメージになりますが、「誇り」「矜持」と書くとまたニュアンスが異なってきますよね。そういう意味で、沢田研二はまぎれもなく誇り高き京都人だと思います。

そんなジュリーにも、ほっこりとさせてくれる逸話があります。1979年も1等賞やレコ大などの賞レースに意欲満々だった沢田研二ですが、この年は西城秀樹が「YOUNGMAN」をひっさげて一歩も二歩もリードしていました。そんなある日の楽屋で西城秀樹の横に座った沢田研二は「今年は西城クンの年やで。頑張りや」とエールを送るのです。ともすれば「俺が俺が」という不遜なイメージを持たれやすい沢田研二にも、京都人らしい奥ゆかしい一面があったのです。西城秀樹をこよなく愛する私としては、とても印象に残っているエピソードです。


ジュリー、京都を唄う?

昭和という時代を駆け抜け、平成、そして令和となった今も精力的な活動を続ける沢田研二は、京都が生んだ最大のスーパースターだと思います。そんな稀代のアーチストに託す夢物語があります。沢田研二に京都の歌を唄ってほしいというリクエストです。天下のジュリーが自らを育ててくれた京都への想いを渾身の一曲に託す、いかがでしょう。たとえば「TOKIO」にちなんで「KYOTO」な~んてね。

えっと…、実は私なにげにTOKIOの京都バージョンの歌詞を作っちゃったんです。「KYOTO」だと語呂が合わないんで「MIYAKO」と題しました。よければ読んでやってください。「TOKIOってどんな曲だったっけ?」という方は、こちらでTOKIOのメロディをおさらいしてから見てもらえれば幸いです。

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