春、新型感染症が国中に拡大し始め、各地の祭り、行事が中止を余儀無くされた。祇園祭もその判断を迫られたのである。5月の連休を過ぎると、祭に関わる氏子地域、各種団体は人知れずその準備に入る。それ迄に決定しなければ多くの迷惑を多くの人に掛けることになる。4月末、関係団体を集め、今年の祭は「中止」とする判断をした。まさに「断腸の思い」であると。その時はまだ祭り迄に治まるのではないかと淡い思いもありながらであった。
神輿会からは「声が掛かればいつでも輿丁は集まれる」との声を受け、何とかならぬのかと思いながら、この疫病封じの祭を、これからどうしていくのか、悩ましい日々が続くのである。山鉾も建たず、会所飾りも無く、兎にも角にも人の集まることは極力避けようとのことだ。
神輿は居祭となる。
6月14日神泉苑に於いて感染症の早期収束を祈る「祇園御霊会」が八坂神社との神仏習合の形で行われた。参列者に門川市長を迎え、鳥越住職が疫病消滅の祭文を上げ、般若心経を読経、最後に薬師如来の真言を唱え、森宮司は祝詞を奏上した。
「神泉苑御霊会」によると、清和天皇の御代、貞観5年(863年)疫病が流行し、朝廷は神泉苑で盛大な御霊会を行い、疫病消滅を祈ったとある。その後、平安京ではたびたび疫病が流行し、又貞観6年から8年にかけては富士山が大噴火し、貞観11年(869年)には陸奥国に東方沖を震源とする大地震が勃発した。記憶にも新しい平成23年3月11日に起きた東日本大震災と同等の被災だ。その年の御霊会に国の数66本の矛を建て、祇園社(八坂神社)から神輿を送り疫病退散、国家鎮護の祈りを行った。
これが祇園御霊会(祇園祭)の起源とされ、66本の矛が今ある山鉾の起源でもある。
元々、御霊会が平安時代、政争や無実の罪等で不慮、非業の死を遂げた人々を鎮魂する為のものであった。それは疫病の流行や天変地異はその御霊(怨霊)の所業と信じられていたからだ。所謂祟り神で、その祟りを鎮めるための祭であった。
因みに、66の国は本州と四国、九州に定められ、陸奥国が一番大きく、今の県名で言えば、青森、岩手、宮城、福島である。畿内5国は山城、大和、河内、和泉、摂津の5国。今でもこの辺りを言う地名として使われている。
さて、山鉾巡行も無く、神輿渡御も無くなった本年の祇園祭はどうなるのだろうか、まさしく神事のみということになる。京都が世界に誇る祇園祭は、都大路を行く山鉾巡行によって広く世間に知れ渡っている。しかしながら祇園祭の本質はこの巡行の中に見失われがちであるが、八坂神社の御神霊を鴨川を越えて洛中に渡御することこそが本義なのである。
この本義について数年前に語られたことがある。平成25年の8月、八坂神社で後祭巡行の再開を発表する記者会見が開かれた。祇園祭山鉾連合会理事長吉田孝次郎氏からだ。
祇園祭の主役は本来、八坂神社の神輿だ。それゆえに、神輿渡御の”先触れ“と位置づけられる山鉾巡行は、毎年7月17日の神幸祭に伴う前祭と還幸祭が行われる24日の後祭に分かれていた。言うまでもなく祇園祭の本義だ。明治に入って暦が新暦になり、祭の催行は17日と24日なったが、冒頭に書いたように神幸祭が旧暦6月7日、還幸祭(祇園御霊会)が14日であった。その翌日15日が大祭である「例祭」である。祭を終えて朝廷から幣帛が贈られてのこの神事も本義である。
「令和二年の祇園祭―氏子地域を渡御する神籬等について」
「神籬(ひもろぎ)」とは…臨時に設けられる祭祀の施設で、神を宿らせる依代(よりしろ)として榊を立てる。
祇園会の事、当年に於いては、まず榊を以て執行せらるるの段、先度書奉り成さるの上は、毎度甚略せしむ、神事専らにすべきの旨、重ねて相触れ諸役は、其の節遂げられるるべし、もし異儀に及ぶの輩有らば注進に随て厳科に処せらるるべきの由、仰せ出だされそうろうなり、よって執達件のごとし、
明応九(一五〇〇) 五月三十日 当社執行御房 清房 在判 元行 在判
祇園会の事、御榊を以て執行の儀、先例無きの段申入れそうろうと雖も、神事退転然るべからざるの間、非例たると雖も、其の節とげらるるべきの旨、度々仰せらるるの上は、縦ひ日吉祭礼遅怠有ると雖も、当社の儀に於いては厳密に下知を加え、神事に専らにせらるべし、もし難渋の族有るらば、一段御成敗有るべきの由仰せ出されそうろうなり、よって執達のごとし
明応九(一五〇〇) 六月一日 当社執行御房 清房在判 元行在判
『大乗院社寺雑事記』・六月八日条 「三社神輿は新造か」→神輿は完成していた!
室町幕府は応仁の乱により停止していた祇園会再興を目指すも神輿の新調が間に合わないのであろうか、榊をもって神輿の代わりにしてでも執行せよと祇園社社務執行に命じている。日付を見ると、同じような命令が何度もだされ、神輿渡御の六日前にも出されていることがわかる。
上記のように仲林権禰宜より、祇園社記にある室町幕府からの通達文を資料として頂いている。神輿の新調が間に合わなくても榊を以て代行する様にとの文である。
只、最後の文で三社神輿が新造になり祇園御霊会が再興になったことが分かる。昨年は祇園祭創始千百五十年の記念すべき年となり賑々しくお祭を催行させて頂いたが、今年はこれである。しかしこの資料の如く、八坂の神々を鴨川を渡し市中に送る祭の本義を貫くことこそ我々の使命であろう。
「神籬」に遷霊し17日はお旅所へ、24日はお旅所から中御座の渡御順路を神社まで還幸する。7月1日からの神事も関係団体にて粛々と勤めていくことになる。
この一ヶ月は東山の麓から市中に至る迄深く静かな祈りの月となる、祭の始原、始まりの始まりだ。