弘法大師(空海)の開基と伝えられ、「くぎぬきさん」として親しまれている。
 地蔵堂に安置する石造地蔵菩薩立像は弘法大師の作と伝えられ、もとは諸々の苦しみを抜き取るという信仰から苦抜地蔵と呼ばれていたが、それがなまって釘抜地蔵となった。
 一説には、手の病気に苦しむ商人の夢に地蔵菩薩が現れ、手に刺さっていた二本の恨みの釘を抜いて救ったことから釘抜地蔵と呼ばれるようになったとも伝えられる。
 境内には、弘法大師三井の一つという加持水がある。また、この地は鎌倉時代初期の歌人・藤原定家、家隆が住んだ所ともいわれており、定家らの墓と伝えるものがある。

石像寺 釘抜き地蔵(苦抜き)

石像寺 釘抜き地蔵(苦抜き)

祈願者が奉納した御礼絵馬

祈願者が奉納した御礼絵馬

6.大報恩寺(千本釈迦堂)

おかめ塚由来

鎌倉時代の初め長井飛騨守高次という洛中洛外に名の聞こえた棟梁とその妻阿亀が住んでいました。
そのころ千本釈迦堂の本堂を建立することになり高次が総棟梁に選ばれ、造営工事も着々と進んでいた。しかし、高次ほどの名人も信徒寄進の四天柱の一本をあやまって短く切り落としてしまいました。
困り抜いている夫に、御亀(おかめ)は足らない部分を桝組によって補ってはと提案しました。この着想が結果として成功をおさめ、見事な大堂の骨組みができあがりました。
 厳粛な上棟式が行われたがこの日を待たずして、御亀は自ら自刃して果てました。
女の提言により棟梁としての大任を果たし得たという事が世間にもれきこえては・・・「この身はいっそ夫の名声に捧げましょう」と決意したのです。

何を思うか一点を見つめて 「枡組」を胸に抱いたおかめ像

何を思うか一点を見つめて 「枡組」を胸に抱いたおかめ像

棟梁の高次は上棟の日に、亡き妻の面を御幣につけて飾り冥福と大堂の無事完成を祈ったといわれ、また、この阿亀の話を伝え聞いた人々は貞淑で才智にたけた阿亀の最期に、同情の涙を流して菩提を弔うため境内に宝筐院塔を建立し、だれ言うとなくこれを「おかめ塚」と呼ぶようになったのです。

現在、京都を中心として使用されいるおかめの面の上棟御幣は阿亀の徳により「家宅の火災除け」家内安全と繁栄を祈って始められたものです。
 

7.湯沢山茶くれん寺(浄土院)

豊臣秀吉が北野大茶会につく途中、
のどが渇いたので浄土院に立ち寄ってお茶を所望したところ、住職は己の茶道の未熟さを恥じて秀吉が、何度お茶を所望してもさ湯ばかり出したという。

俗に湯たく山茶くれん寺と言われた。

湯沢山茶くれん寺(浄土院)

湯沢山茶くれん寺(浄土院)

千本頭周辺の地図

千二百年も続いている都である京都には、伝承も含めて様々な歴史がある。
あらためて不思議で興味深い都である。

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この記事を書いたKLKライター

自称まちの歴史愛好家
橋本 楯夫

 
昭和19年京都市北区生まれ。
理科の中学校教諭として勤めながら、まちの歴史を研究し続ける。
得意分野は「怖い話」。
全国連合退職校長会近畿地区協議会会長。

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