※本稿は2020年8月掲載の記事です
京都では先祖の霊を、親しみを込めて「オショライさん」とよぶ。
盆に戻ってきたオショライさんは、懐かしいわが家で子孫たちの丁重なもてなしを受け、8月16日に再びあの世へ帰ってゆく。
私が幼い頃は、盆花や団子などの供物を16日の夕刻に鴨川あるいは堀川に流し、それによって先祖の霊を送ることが習わしとされていた。
そしてその夜には、京都盆地を取り囲む山々に盆の送り火が灯される。
歴史的に見て、少なくとも400年以上続けられてきた送り火の行事が、今年は「中止になった」という声が周囲から聞こえてくる。
しかし、送り火は本当に中止なのか。
先月からの多くのマスコミの報道からもわかるように、今年の送り火は限られた炎のみを灯すという、異例の形式で行われるというのが実情だ。
要は「大」や「妙法」「鳥居」等の文字や図柄を灯すことはせず、如意ヶ岳の大文字だけは6ヵ所、その他は1ヵ所もしくは2ヶ所にだけを点火するというのである。
これはつまり「中止」ではなく、大幅に縮小した送り火になるという理解が正しいといえるだろう。
5つの送り火保存会が加盟する連合会では、4月から毎月理事会を開き、今年の送り火の実施方法について喧々諤々の議論を重ねてきた。
理事の中には例年通り点火したいという声もあったというが、そうなると点火する保存会メンバーも、さらに送り火を見る市民たちも三密は避けられないだろうということから、結果として上記のように大幅に縮小して行うことで決着したという。
各保存会では「大切な人のため、送り火は家から」を合言葉に、すべての人にご自宅で過ごしてもらうように呼びかけている。
私は、今年のように文字や図柄は灯らなくとも、送り火の本来の目的は十分に果たせるものと考えている。
なぜそう言えるのか。理由について説明しよう。
送り火の起源は「万灯籠」や「千灯籠」などとよばれる、室町時代以降に京都と周辺地域で行われてきた灯籠行事だと考えられている。
万灯籠とは、戦乱で他界した多くの死者霊を弔うとともに、盆にあの世から戻ってきた先祖霊を供養し、この火に照らしてあの世へ送るための松明行事である。
さらに、炎の力によってさまざまな災厄を祓うという意味も有するようになったものと考えられる。
本来はきわめて素朴な松明行事が、やがて華美に変身し、多くの人たちに見せるために風流化したのが万灯籠である。
その結果作られたのが「十二灯型万灯籠」とよばれる松明行事であった。
今日でも、たとえば丹後の旧久美浜町河梨では、8月23日に「十二灯」とよばれる松明行事が行われている。
また舞鶴市吉原では、8月16日に「マンドロ」とよばれる松明行事が、さらに若狭おおい町福谷でも8月14日と15日の両日に「オオガセ」とよばれる大規模な松明行事が行われている。
これらはすべて共通した炎の祭典であり、名の通り12の炎を灯すという形式の松明行事である。
なお、12という数は1年の月を表していることは言うまでもない。
京都では、この「十二灯型万灯籠」の炎がさらに風流化して五山の送り火になったと考えられる。
このように、五山の送り火は万灯籠の行事が元にあり、それがさまざまに変化する過程で、山の斜面に火床を築き、そこに松明で大きな文字やさまざまな図柄を描くという発想が生み出されて完成した、特異な万灯籠の行事であるといえよう。
やがてそれが江戸時代初期頃には、京都の夏の年中行事として定着したのである。
このように考えると、送り火の本義は炎そのものにあるのであり、必ずしも文字や図柄にこだわる必要はないことがお分かりいただけるだろう。
つまり、たとえ1ヵ所であろうと、炎を灯すことで元来の送り火の役割は十分に果たし得るといえるのである。
今年は確かに、例年と比べると少し寂しい送り火になることは間違いない。
しかし、送り火が人類に襲いかかるさまざまな災厄を祓う力があるというのなら、今年は1点の炎にコロナ退散の願いを託して、来年こそは、すべての人々を魅了する、勇壮で荘厳な送り火が再び灯ることを祈りたいものである。