1.はじめに

この「堀川団地にまつわる物語」も4回目を迎えた。毎回多くの方に読んでいただき大変ありがたいと感じており、堀川団地のことを知っていただくきっかけになればと考えている。

前回は堀川団地・堀川商店街の前身である「堀川京極」について、古写真やインタビュー調査を元に紹介をさせてもらった。今回はその続きであり、堀川団地建設以降の昔話をさせていただく。

この堀川団地は、堀川京極の再興を求める地域住民の期待に応えるために建設されたという経緯がある。建設直後は全国から見学者が訪れ、戦後の復興住宅のモデルとして大いに注目を集めたと言われる。このような先進的な堀川団地に暮らすこと、堀川団地で商売をすることは当時の人々にとっての憧れであり、誇りでもあったと考えられる。今回は、堀川団地や周辺エリアの古写真を元に地域住民から集めた堀川の記憶について紹介する。


 

2.堀川商店街の賑わい

最初に紹介する写真1は、1953年に下立売団地(4番目の住棟)が建設された時の堀川商店街の開店売出しの様子である。この写真は、堀川団地の賑わいを象徴する写真として、雑誌やテレビなどでもよく取り上げていただいた。堀川通りを埋め尽くすほど人で溢れかえり、屋上にも多くの見物客がいる。この時の賑わいを物語るエピソードは多くあり、「人をかき分けて進むような感じだった」「開店直前にまかれた歩道の砂利が、3日間の大売り出しで埋まって平らになった」といったコメントが得られた。また、真偽は不明だが、「この写真のくす玉を割ったのは日本初の試みだった」というコメントもあり、昔からの商店主が堀川商店街の賑わいを誇らしく思っている様子が伺えた。

写真1.堀川団地建設当時の賑わい(1953年)

写真1.堀川団地建設当時の賑わい(1953年)

(提供:堀川商店街協同組合)

 続いて、堀川団地が建設された頃の商店街の日常風景を写した写真を紹介する。写真2は、商店街の手前で売りに来ていた露商の様子を写したものである。当時、このような露商は頻繁に来ていたようで、中には露店で稼いだお金を元手に近くに店舗を出店した人もいたようだ。露商が頻繁に訪れていたという事実が堀川商店街の賑わいを物語っていると言える。写真3は、堀川商店街で当時行われていた七夕まつりの様子である。笹の飾り付けコンクールも行われていたそうで、堀川通りが七夕飾りで彩られている様子がよく分かる。

写真2.堀川商店街の前の露商(1953年)

写真2.堀川商店街の前の露商(1953年)

(提供:堀川商店街協同組合)

写真3.七夕まつりの様子(1955年)

写真3.七夕まつりの様子(1955年)

(提供:堀川商店街協同組合)

堀川商店街への出店は、堀川京極からの戻り入居が優先的に出店できたそうだが、堀川京極からの戻り入居は合計で20店舗にとどまった。堀川京極時代の店舗が約300店舗ほどあったことを考えると、必ずしも多いとは言えず、新しい商店も多く入って完成した商店街と言える。前回言及したように、堀川団地が建設されるまでに近隣で新しくお店を構えた人が多かったために、戻り入居する店主が少なかったのではないかと推察される。



3.もう一つの堀川商店街

写真4は、上長者町団地で長くお商売をされていた三木鶏卵堀川店のオープン当時の写真である。三木鶏卵は、錦市場に本店が位置する卵焼きの老舗であり、堀川店は暖簾分けとして出店した。
店主によると、先にできていた堀川商店街の評判が非常に良かったこともあり、出店する際の審査は非常に厳しかったという。この三木鶏卵も親方が出店するという名目で応募したという。また、業種が重複しないように選定されたため、本来の業種と異なる業種で応募してきた人もいたようだ。堀川団地は人気ぶりが伺える。
この上長者町団地の店舗は、堀川商店街共同組合と別の組織であり、堀川商店街一丁目会と呼ばれていた。厳しい審査をクリアして入った由緒ある店舗が多く立ち並び、棟としての結束も強かったという。
 余談になるが、60年間卵焼きを焼き続けてきた「卵焼き職人」の店主が焼いただし巻きは絶品だった。上長者町団地の解体に伴い、閉店してしまったのが個人的にはとても残念である。

写真4.開店時の三木鶏卵堀川店(1955年)

写真4.開店時の三木鶏卵堀川店(1955年)

(提供:三木鶏卵元店主)

4.堀川団地の暮らし

堀川団地は、1階が店舗併用住宅、2階が専用住宅となっている。今でこそ、1階は店舗のみで使用しているが、当初は通り側でお店を経営し、奥の住居部分で暮らすという職住近接の暮らしが営まれていた。床面積約30㎡と広い住宅ではなかったが、堀川団地で3人の子どもを育てたというご家族もおられた。1階は店舗を想定した階高が高く設計されているので、ロフトを自分で作ってスペースを増やしたという居住者もおられ、様々な工夫をしながら暮らしていたようだ。
当初は子育て世帯が多く、子どもたちが走り回るにぎやかな団地だったという。写真5にあるように、堀川団地2階の共用テラスでは地蔵盆も行われており、濃密なコミュニティがあったことが伺える。また、写真6は屋上で遊ぶ子どもたちの様子である。堀川団地の屋上は子どもたちにとって格好の遊び場だったと考えられる。なお、この屋上は眺めがよく、住棟によっては大文字山を眺めることができる。

写真5.2階テラスで行われた地蔵盆

写真5.2階テラスで行われた地蔵盆

(提供:はとや元店主)

写真6.屋上で遊ぶ子どもたち

写真6.屋上で遊ぶ子どもたち

(提供:はとや元店主)

5.チンチン電車の思い出

堀川エリアに昔から住む人にとって強く記憶に残っているのがチンチン電車である。地域住民に聞いたチンチン電車にまるわる興味深い話を紹介したい。写真7は、明治時代のチンチン電車で、先頭に先走りと呼ばれる少年が乗っている。この先走りとは、「電車が来たぞー!」と叫びながら走って伝えるという役割を担っていた。チンチン電車がゆっくりまちを走っていたというのどかな情景をイメージすることができた。
 堀川商店街に来ていたお客さんも遠方からはこのチンチン電車に乗ってきていたようだ。1961年にチンチン電車は廃止されたが、京都市バスの50番系統はこのチンチン電車と同じルートを通るように開設されたそうで、チンチン電車は堀川エリアにおける重要な移動手段でもあったことが伺える。

写真7.明治時代のチンチン電車写真(1896年)

写真7.明治時代のチンチン電車写真(1896年)

(提供:堀川商店街協同組合)

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土井 脩史

土井脩史(Shushi Doi)
住宅計画研究者。博士(工学・京都大学)、一級建築士。
京都橘大学現代ビジネス学部都市環境デザイン学科・専任講師。
京都・大阪を主な研究対象として、これからのストック活用時代における住宅計画のあり方について研究している。

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