この詩仙の間の上に、楼閣があります。
詩仙堂の土地の中ではもっとも高い場所を占めています。
いわゆる展望台である、と考えてください。

この楼閣、嘯月楼、庭園だけでなく、京都市内も見渡せるといいます。(一般立ち入り禁)
じつは、妙な説があるのです。
石川丈山は、表向きは引退の身であるが、実は徳川家から援助を受け、ある役目に就いていたのだと。

それは、都の東、この楼閣から、京都御所、つまり朝廷や公家の動向を見張る、という役目であると。

そうでなければ、いち浪人の身で、こんな広壮な邸宅を建て、維持できるものではない。その費えはどこから来たというのか、徳川に違いない…というわけです。
明治の著述家 宮武外骨などが唱えたあたりが始まりだそうです。
いわゆる俗説ですね。
なんにしても、丈山が、どのようにして生計を立てていたのか。後世の人が訝しむほど、彼の余生は長く、充実していたのですが、たしかに、不思議なのです。

ここからは、丈山はどうやって暮らしていたか考え、それが上記の説の反論につながれば、と思います。

 

丈山の生計は、どうなっていた?

丈山の生計は、どうなっていたのか。3つの点から考えます。
1)武士時代の蓄えがあった
2)学問などを人に教え、あるいは詩・書を作ることで謝礼や協力を得ていた
3)援助してくれる先があった
 

1)武士時代の蓄えがあった

まず、1) について。
繰り返しになりますが、丈山は古くから徳川(松平)の家臣であった譜代の武士です。
彼のような人が、別の大名家に仕官した場合、厚遇されることがあったのです。

本多政重という、同時代の人が居ます。
丈山とは遠縁の親戚(本多正信の息子)で、やはり、徳川譜代の生まれですが、他の大名の下で働き、最後には前田家に仕えました。
徳川家に顔が利くこともあり、前田~徳川の間でなにか起こると、交渉事を担当するなどして功績を上げ、小大名並みの待遇を得ています。

同じく、丈山も、浅野家から好待遇を受けました。
彼の広島時代の収入(禄高)は、上級旗本並の、二千石。
今で言えば、正社員を15~20人抱えているというところ。アルバイト・パートも加えて、全部で4~50人を雇って商売する企業の社長、そんな身代です。

現代の貨幣価値に換算するのは難しいのですが…丈山の年収はざっと1億円は超えているとイメージしてください。
本来なら、そのお金から、部下を雇ったりするのですが、丈山は客員待遇だったので、その出費もなく、お母さんを世話する他は、慎ましく暮らしていたそうです。
これで13年働けば、第二の人生は安泰ですね。

2)学問などを人に教え、あるいは詩・書を作ることで謝礼や協力を得ていた

つぎに、2)について。
丈山は、杜甫・李白(中国古代の大詩人)にも劣らないと称賛された漢詩の名人でした。また儒学にも通じていました。
彼の教えを受けたい、という人があれば、講義をして謝礼を受け取ることで生計を立てることが出来ます。

丈山にも弟子がいました。甥でもあった石川慈俊という人物が、詩仙堂の近く、瓜生山に住んでいたそうです。
また、丈山の養子になった石川克という人物もおり、克は丈山の死後、その作品をまとめて整理し、保存を図っています。
弟子の一人、平岩仙桂は、丈山の死後、詩仙堂の維持管理に努めています。
彼らが丈山のそばに仕えて、何かと世話したのです。

丈山の交友範囲は広く、林羅山、藤原惺窩、小堀遠州、松花堂昭乗、佐川田昌俊、板倉重宗などの著名人と親しく交流していたそうです。このうち、小堀遠州は大名。佐川田昌俊は淀藩の家老、板倉重宗は京都の代官(所司代)でした。彼らのような人たちと直接に指導し合ったり、または人を紹介してもらってそこの教師になったり…ということも出来るでしょう。

3)援助してくれる先があった

3)について。
丈山は、徳川譜代の武士であり、また、高名な文化人でもあったことで、援助してくれそうな人は少なくありません。

まず、同族から援助があった可能性。
石川家は徳川家の古い家臣だといいましたが、それだけに一族から大名や旗本を生みました。伊勢亀山藩を治めた石川家成など、10以上の家が残っています。彼らから…ということはないでしょうか。

有力候補?最後の仮説とは…

最後に、もうひとつ、候補があります。私は、これは有力候補では?と思っています。
東本願寺です。

石川家も、本多家も、本願寺の門徒でした。徳川家康がまだ若かった頃、領内に居た本願寺のお寺と、家康が、対立して、とうとう戦いになったことがあります。
三河一向一揆です。
このとき、石川、本多家の中には、主君である家康を裏切って、本願寺に味方するものも出ました。そのぐらいの熱心な信者でした。

丈山の母方の親戚・本多正信も、三河一向一揆に加わって家康に反抗、一揆が敗北しても、すぐには徳川家へ戻らず、何年も放浪していたという経歴の持ち主。

正信は、西本願寺からの東本願寺の分離・独立を家康に提言した人でもあります。
この件は、江戸幕府による本願寺教団の分断政策として、ご存じの方も多いのではないかと思います。
正信にしてみれば、一向宗の起こした内戦に加担した経験があり、その反省を踏まえ、どうすれば宗教に起因する戦いを回避できるのか…と考えていたのでしょう。

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この記事を書いたKLKライター

写真家
三宅 徹

 
写真家。
京都の風景と祭事を中心に、その伝統と文化を捉えるべく撮影している。
やすらい祭の学区に生まれ、葵祭の学区に育つ。
いちど京都を出たことで地元の魅力に目覚め、友人に各地の名所やそれにまつわる歴史、逸話を紹介しているうち、必要にかられて写真の撮影を始める。
SNSなどで公開していた作品が出版社などの目に止まり、書籍や観光誌の写真担当に起用されることになる。
最近は写真撮影に加えて、撮影技法や京都の歴史などに関する講演会やコラム提供も行っている。

主な実績
京都観光Navi(京都市観光協会公式HP) 「京都四大行事」コーナー ほか
しかけにときめく「京都名庭園」(著者 烏賀陽百合 誠文堂新光社)
しかけに感動する「京都名庭園」(同上)
いちどは行ってみたい京都「絶景庭園」(著者 烏賀陽百合 光文社知恵の森文庫)
阪急電鉄 車内紙「TOKK」2018年11月15日号 表紙 他
京都の中のドイツ 青地伯水編 春風社
ほか、雑誌、書籍、ホームページへの写真提供多数。

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SNSなどで公開していた作品が出版社などの目に止まり、書籍や観光誌の写真担当に起用されることになる。
最近は写真撮影に加えて、撮影技法や京都の歴史などに関する講演会やコラム提供も行っている。

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