京の銅像・石像など -今も都を見守っている-

1200年続く都の繁栄には、京で活躍した先人の功績によるところが大きい。先人の銅像や石像などを巡ってその足跡を訪ねた。
そこに佇んでみると、都で活躍した生活の様子が思い出される。今、安心安全な京都があるのは、過去に活躍した人々から学ぶべき事が多くあるのではないだろうか。

①洛北

大原女(おはらめ)…地下鉄国際会議場前 改札口付近

女性が薪を頭に載せて京都で売り歩いていた。建礼門院徳子の侍女阿波内侍の大原ファッションが始まり。


楠木正成…三宅八幡宮

鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将で、後醍醐天皇による鎌倉幕府打倒に貢献した。
和気清麻呂と共に日本歴史上、二大英雄として皇居には二人の銅像が置かれており、また、その功績を称えられ「大楠公」の称号が贈られた。
北区の大宮小学校にあった像を戦後に神社が譲り受けた。


宮本武蔵…一乗寺下り松 八大神社

江戸時代初期の剣術家、兵法家、芸術家。
二刀流の開祖で、京都の吉岡一門との戦いや巌流島での佐々木小次郎との決闘が有名である。
生涯に60回以上命がけの決闘をしても一度も負けなかったと言う。
史実とは異なった創作があると言う。


②京都市街北部

桂昌院…今宮神社

江戸幕府3代将軍・徳川家光の側室で、5代将軍・綱吉の生母。
西陣の八百屋の娘として産まれ、後に「玉の輿」と言われた。
仏教への帰依が深く、応仁の乱で荒廃した京都の寺院を多く再建・復興に尽力している。
今宮神社境内にその功を讃えレリーフが建立された。

 

紫式部…千本閻魔堂(引接寺)

平安時代中期の女性作家、歌人。日本最古の長編小説「源氏物語」の著者である。
紫式部が住職の夢枕に出てきて、作品のでっち上げに苦しんでいた。住職が紫式部を供養したところ、夢枕に出てこないようになったと言う。その供養塔を建造し、その後銅像を立てた。


尾上松之助…下鴨葵公園

日本映画草創期に活躍した時代劇スターであり、日本初の映画スターといわれた。見得を切る時、大きな目をぎょろりと睨みすえるところから「目玉の松ちゃん」の愛称で親しまれた。
社会福祉における数々の功績を讃え、ここに建造された。


牧野省三…等持院墓地

日本最初の職業的映画監督であり「日本映画の父」と呼ばれた。300本以上の時代劇映画を作製した。尾上松之助とコンビを組み、大衆から支持を得た。
孫に俳優長門裕之と津川雅彦がいる。


長谷川等伯…本法寺

能登の七尾出身で、桃山時代を代表する画家である。狩野派に挑戦し続け、独自の画風を築いた。
智積院には一門と早逝した長男・久蔵らが描いた障壁画を見ることができる。
境内には旅姿の等伯が遠く仰ぎ見る銅像が建立されている。


鳥居篤治郎…ライトハウス

京都で盲学校教育の充実に尽くした後、全国の盲人組織の立ち上げ・充実に尽くした。京都ライトハウスの創立者。
ライトハウスの庭と入口には、胸像が建てられ顕彰している。


おかめ…千本釈迦堂(報恩寺)

本堂創建のとき、大工の棟梁が柱の一本を短く切ってしまい、深く悩んでいた。
妻が名案を出して助けた。女の入れ知恵が世間に漏れては夫の名声に傷がつくと、上棟式を待たずに自害したという。おかめの冥福を祈って、宝篋印塔と銅像が建立された。


③京都市街-中部

安倍晴明…晴明神社

平安時代中期、天皇や貴族に重用された天才陰陽師。星座の急変するのを見て、予知した。社紋は五芒星といい5つの角を持つ星マークであり、晴明桔梗とも呼ばれている。境内の晴明井は、飲むと悪病難病が治ると伝える。
方除け・火災除け・病気平癒の神として信仰されている。

▶︎安倍晴明の鴨川 豊臣秀吉の鴨川


和気清麻呂…護王神社

奈良時代末期から平安時代初期にかけての貴族。桓武天皇に長岡京から平安京への遷都を進言された。清麻呂公は造営大夫として、平安京建都にも力を尽くした。

近藤 勇…壬生寺

江戸時代末期の武士。14代将軍徳川家茂の上洛警護をするための浪士組に参加し上洛する。その後、京都の治安維持のために尊王攘夷派の志士を取り締まるようになり、新撰組局長なった。壬生村八木邸を屯所とした。


新島 襄…新島会館

キリスト教の教育者であり、同志社大学を設立した。山本覚馬の妹八重と結ばれる。襄は八重の腕の中で、「グッドバイ、また会わん」と言い生涯を終え、若王子山内に埋葬されている。

湯川秀樹…京都大学湯川記念館

日本人として初めてノーベル物理学賞を受賞した(1949年)。陽子と中性子との間に作用する核力を媒介するものとして中間子の存在を予想した。またその一方で、反核運動にも積極的に携わった。

木戸孝允…京都ホテルオークラ前

明治維新の指導者として活動し、維新の三傑の一人。維新後、封建的諸制度の解体に努め、三権分立国家の実施や
国民教育の充実に努めた。京都三本木の芸妓幾松を恋人とし、後に正妻として、今でもロマンスが語られている。


弥次さん喜多さん…三条大橋西詰

弥次さん喜多さんは、十返舎一九の滑稽本「東海道中膝栗毛」に出てくるモデルである。江戸時代の東海道旅行の実状が記録された貴重な資料であり、日本初の旅行ガイドブックでもある。
東海道の終着点の三条大橋西詰めに二人の像が立っている。


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この記事を書いたライター

 
昭和19年京都市北区生まれ。
理科の中学校教諭として勤めながら、まちの歴史を研究し続ける。
得意分野は「怖い話」。
全国連合退職校長会近畿地区協議会会長。

|自称まちの歴史愛好家|北野天満宮/今宮神社/千本通/明智光秀/怖い話