旧二条城の堀に使われていた石垣が地下鉄烏丸線の発掘調査で発見された。石垣の石材には石仏や礎石なども用いられていた。

京都御苑内、西南の椹木口あたりに移築された復元石垣。
地下鉄烏丸線の工事に伴う発掘調査で丸太町上ルに埋もれていた石垣である。

洛西ニュータウンはまわり一帯が古くから京たけのこの産地であった。その歴史を後世に残すため、竹林公園が昭和56年に開園された。埋もれていた石仏など約350体が安置されている。

現二条城本丸西側に移築保存されている石垣。上下二段構造で、犬走りが見られる。

旧秀鱗寺庭園(朽木谷 興聖寺)

滋賀県朽木村

滋賀県朽木村

室町幕府第13代将軍義輝が戦乱の続く京から逃れ3年余り滞在した秀鱗寺庭園跡

花の御所(室町殿)

同志社大学今出川校地の烏丸通を挟んで向かい側の門跡尼寺である「大聖寺」境内に建つ石碑。
庭内に四季折々の花木を配置したので、「花の御所」と呼ばれた。

今出川室町通り角に建つ石碑

今出川室町通り角に建つ石碑

同志社大学寒梅館の建設に伴う発掘調査(2002年)で、発見された石敷。ガラス越に保存されている。

番 外 編

室町幕府とは直接関係がないが、信長時代の「二条御新造」、「妙覚寺城」および秀吉時代の「妙顕寺城」についても紹介をしておく。

二条御新造

京都国際マンガミュージアム跡に建つ石碑。

京都国際マンガミュージアム跡に建つ石碑。

1577年(天正5年)、織田信長が二条良基の邸宅を、京都の拠点として整備した。
1579年(天正7年)正親町天皇の皇太子誠仁親王に献上し、二条殿・二条御所と呼ばれた。
1582年(天正10年)「本能寺の変」で信長の長男信忠がここで自刃し、二条殿は焼失した。

妙覚寺城

1582年(天正10年)の本能寺の変の際、織田信長の嫡男信忠が宿舎としていた。明智光秀の謀反を知った信忠は寺を出て、明智勢を討つべく東隣の二条殿へ向かうが、果たせずに自害する。
信長は二十数回京に滞在しているが十八回宿所とし、本能寺は三回しか滞在していない。
現在、上京区上御霊前通小川東入ルに移転されている。
大門は聚楽第の裏門を移築したと伝わる。

 

妙顕寺城

二条城東側の古城町に石碑が残る。1583年(天正11年)に本拠地を大坂に定めた秀吉が京都における拠点として築いた城である。
聚楽第完成まで秀吉の政庁として使われた。周囲には堀をめぐらし、天主をあげていたという。

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この記事を書いたKLKライター

自称まちの歴史愛好家
橋本 楯夫

 
昭和19年京都市北区生まれ。
理科の中学校教諭として勤めながら、まちの歴史を研究し続ける。
得意分野は「怖い話」。
全国連合退職校長会近畿地区協議会会長。

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