堀川通りは、上賀茂御園橋から九条通りまでの約8㎞を言う。
平安京造営以前の古堀川の源流は、船岡山南谷の小河川と推察されている。
今でも頂上付近に水が染み出る箇所が見られる。
桓武天皇が平安京遷都にあたり、山背を「山河襟帯 自然作城」と評した。
その意味は、山が襟のように囲んでそびえ、川が帯のように巡って流れ、自然の要害をなしていると述べている。
そして山背から山城と改めたと言う。

地下鉄烏丸線工事の時、烏丸上立売の地下5mに、チャートからなる固い岩盤があらわれた。この岩盤は船岡山からのびる地下の尾根であった。古堀川の源流は、船岡山南谷の小河川と推察されている。
時が流れ、人々が移り住み都が繁栄すると共に、古堀川の一部が人工的に堀り繋がれ、ほぼ今の流路ができたと考えられている。掘って繋げた川だから堀川と言う名がついた。


平安京造営前の京都盆地北部の地質図 堀川の源流は、船岡山山脈?

平安時代以降 源流は、西賀茂京見峠近くから流れる若狭川と賀茂川からの支水水路の二俣川であった。都に住む人たちの生活に密着して活用された。生活用水、物資の運搬、友禅染め、貴族の庭園の入水などである。

今でも西賀茂の干害用水池・尺八池から流れ出る若狭川が途中暗渠になり賀茂川に流れ込んでいる。
昔の川筋であったと考えられる道が、鷹ヶ峯扇状地に斜めに走っている。また、大徳寺東側溝や堀川鞍馬口付近に窪地があり河床跡と考えられている。東本願寺前の水堀もその痕跡である。

堀川は、都に住む人たちの生活に密着して活用された。

堀川取水口 紫明せせらぎ第一公園

堀川取水口 紫明せせらぎ第一公園

現堀川の水は、高野川の上流から引き込んだ第二疏水分線と上賀茂神社の境内を流れ上賀茂の畑地を潤した明神川が合流した水路である。賀茂川の手前で暗渠と化している。
その水路が賀茂川を潜り抜け、紫明通りにポンプで汲み上げ滝のように流れ落している。
流路は、堀川通り沿って流れ二条城前から暗渠になりその後、鴨川に流れ込み淀川と合流し大阪湾に至る。

蘇った堀川  地域住民参加の水辺空間

蘇った堀川  地域住民参加の水辺空間

以前、ゴミ捨て場になりつつあった堀川が、蘇った。平成9年~20年間、紫明通りから二条城前まで約4.4㎞、約18億円かけて地域住民が協力し、水辺空間が整備された。せせらぎの音を聴きながら、多くの市民の憩いの場として活用されている。


賀茂川の源流の変遷

平安京造営前は、船岡山の山麓が源流。
平安時代は、北西の尺八池よりの若狭川と北東の賀茂川の支流が南下した二流が、小川を経て堀川へ。
現在は、第二疏水分線と神明川が合流し紫明通りを経て堀川へ。


 

堀川第一橋 満員チンチン電車 転落事故 木端微塵 死者18名

堀川の東西には橋脚の煉瓦積みが二種残る。狭い方が単線跡、広い方が複線跡である。
複線跡の下に立つと、スピードを出し過ぎて電車が曲がり切れず、落下した当時の悲惨な情景が目に浮かぶ。

堀川中立売りにかかる「堀川第一橋」

堀川中立売りにかかる「堀川第一橋」

堀川中立売りにかかる「堀川第一橋」上で、満員のチンチン電車がカーブを曲がり切れずに堀川に真っ逆さまに転落し、18名が亡くなる事故があった。

時は、1946年(昭和21年)2月8日午後11時13分北野神社発京都駅行の最終電車に当時進駐軍専用の北野キャバレー(元北野歌舞練場を進駐軍が接収)でGI達が飲んだり、踊ったりして遊んだあとその電車で京都駅前のホテルまで帰る途中の事故であった。
何故、真っ逆さまに転落したのか?原因は何なのか? 歴彩館を訪問し、73年前の新聞記事を見ることができた。マイクロフィルムに納められて不鮮明な記事をコピーし、拡大してやっと判読できた。

この事故の犠牲者は、進駐軍の米兵2人を含んで、即死13人(うちダンサー5人)、病院収容後死亡5人で、死者は18人、重傷20人(進駐米兵3人)軽傷12人計50人にものぼる。遺体などが収容されたのは京都市交通局病院(現京都ライトハウス)であった。
 

真夜中、終電車のチンチン電車がハイジャックされ? 曲がり切れずに転落する。

当時の新聞記事によると、「戦後最大の市電事故が起こる」と、真夜中、北野神社前を発し東に走り出し、堀川中立売の鉄橋手前でブレーキをかけたところ、スピードを出し過ぎ、カーブを曲がり切れずに前輪が脱線して、アッというまに下の堀川に転落した。木製の小型車体は原型をとどめぬまでに大破した。事故の原因は調査中と記載されていたが、その後一切原因の掲載はなかった。

ここまで読むと、運転手の過失のような匂いがした。もう一度新聞記事を読み直し、運転手は即死、そして新聞に掲載されていた犠牲者の氏名、年齢、住所読むと…ダンサーの女性の年齢が18~28歳の10名と解読できた。キャバレーで若い女性のダンサーと飲んで、踊ったりして帰る途中の事故なのです。これは何かあると感じ、歴彩館で他の関連資料を探し出した。

その資料は「N電廃止25周年回想録(京都市電北野線)昭和61年刊」に「N電堀川へ転落」として掲載されていました。酔っぱらったGI(アメリカ兵)がチンチン電車をハイジャックし、自分でハンドルを握り、スピードを出し過ぎ堀川のカーブを曲がり切れず、そのまま川に転落した様だと載っていました。今となって真相は闇の中に葬られたように感じられます。

いずれにしても当時は進駐軍には逆らうこともできず、箝口令が敷かれ真相を公表することは禁じられたものと思います。残念無念な事故です。戦後の傷跡がここにもあるのかと・・・犠牲者に黙とう “合掌!!!”

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この記事を書いたKLKライター

自称まちの歴史愛好家
橋本 楯夫

 
昭和19年京都市北区生まれ。
理科の中学校教諭として勤めながら、まちの歴史を研究し続ける。
得意分野は「怖い話」。
全国連合退職校長会近畿地区協議会会長。

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