第4回「国連世界観光機関(UNWTO)/ユネスコ 観光と文化をテーマとした国際会議」が2019年12月に国立京都国際会館で開かれました。
世界の約70カ国、約1,500人が集まり、閣僚級会合や分科会等で議論が交わされ「観光・文化京都宣言」がまとめられました。
この中に京都市長が講演した、観光、文化及び地域コミュニティの関係のマネジメントに関する京都の取組が『京都モデル』として引用され、その活用推進が記されました。
今回はその舞台となった国立京都国際会館をご案内します。

ご案内

「日本でも大きな国際会議を開催できる会議場が必要だ。」
この思いが国立京都国際会館を誕生させた。
時は1957(昭和32)年10月のことである。

ジュネーブで開かれたGATT第12回総会終了後帰国した河野一郎経済企画庁長官が、その思いを抱き、建設地を京都にすべきであると提唱した。
これを受け同年11月に国際会議場を「京都市またはその周辺」につくることを閣議決定した。
翌年暮れにはこの建設構想が大きく動き出し、1959年度国家予算に設計費が計上されることになった。

国立京都国際会館

国立京都国際会館

建設誘致に向け、京都市以外の「周辺」の市町も動き出し、府内では宇治市・城陽町・精華町など、府外では滋賀県大津市が名乗りをあげた。
特に大津市では、皇子山地区への会議場誘致を熱心に国に働きかけ、京都市の強力なライバルとなっていく。

京都市は、京都府と協力して建設地を宝ヶ池の一帯とし、京都府知事、地元選出国会議員、京都の財界人たちが一堂に会する建設促進委員会が発足した。
大津市皇子山の建設予定地は国有地であったが、宝ヶ池は民有地であったため土地の買収を要することから、一時は京都市が不利な状況に追い込まれたが、京都市が宝ヶ池の地主や地域の代表者と協議して用地買収同意書を政府へ提出するなど、精力的な働きかけを展開していった。
このような中、神奈川県が芦ノ湖畔への誘致に名乗りをあげたため、三つ巴の様相を呈することになった。

政府が3月に設置した国立国際会館建設等連絡協議会では、宝ヶ池を第1とする意見が出たが、他省から異論もあり、最終決定は9月15日の閣議でようやく宝ヶ池建設案が了承されたのである。
そして建設にあたっては、交通基盤の整備と国際会議場にふさわしい周辺環境の整備が条件として付されたという。

宝が池公園からの国立京都国際会館

宝が池公園からの国立京都国際会館

建築設計ではコンペ方式が採用され、195点の応募作品の中から当時39歳の大谷幸夫氏の案が選ばれた。
この建築について、国立京都国際会館は「比叡山を背景にした穏やかな山間の宝ヶ池の風景に、古都京都の風情を感じ、その風情を損なわないよう、自然の佇まいに設計の枠組みを委ねた。」と大谷氏の手記を載せ、「台形・逆台形の空間の組合せで形づくる国際会館固有の建築的形質は、まさに自然との応答を介して導き出されたと言えるでしょう。
周辺の山々の穏やかな曲線に対して、大会議場のスケールが大きく、四角形の形状のままでは異形のものが立ち現れたように感じられました。
そこで、山肌に迫っていた議場の壁面を内側に傾け台形とすることで、必要平面積を確保しながら建物のボリュームを削り、周辺の山々を圧迫することを緩和しようとしたのです。」と設計意図を解説している。

宝ヶ池からの眺め

宝ヶ池からの眺め

国際会館の建設は1962(昭和37)年11月に始まり、1966(昭和41)年5月に完成・開館を迎えた。
会館の管理運営は財団法人国立京都国際会館に委託され、初代館長には同年2月まで京都市長であった高山義三が就任した。

国際会館建設を契機に宝ヶ池周辺の環境整備が大いに進んでいく。
まず京都駅に新幹線の新駅設置が決まり、京都駅からの道路アクセスとして、白川通や宝ヶ池通などが整備されていく。
また地下鉄烏丸線は、1981(昭和56)年に京都駅-北大路駅間が開通し、その後順次北伸して、1997(平成9)年には国際会館駅まで延伸している。

道路整備計画路線図(1961年度)

道路整備計画路線図(1961年度)

宝が池公園入口

宝が池公園入口

国立京都国際会館イベントホール

国立京都国際会館イベントホール

国立国際会館の建設地を宝ヶ池とする閣議決定が1959(昭和34)年9月に行われた際に付された条件が二つあった。
一つが交通基盤の整備であり、もう一つが国際会議場にふさわしい周辺環境の整備である。
前者については既に述べたが、後者はこの閣議決定を受け、矢継ぎ早に都市計画を決定している。

宝ヶ池周辺

宝ヶ池周辺

(出典:Google Earth)

まず、当時の高度経済成長の下で洛北方面への開発圧力が高まる中、国際会議場にふさわしい環境を保持するため、建設地を宝ヶ池とする閣議決定から2カ月後には、国際会館一帯を風致地区に指定する都市計画案を審議会に諮問した。
この都市計画案は、国際会館周辺の岩倉・静原・上高野において1,684ヘクタールもの広大な区域を風致地区に指定(上賀茂風致地区の追加指定)しようとするものであり、指定理由として「宝ヶ池公園の周辺、特に東山より望見せられる北部岩倉地区を郊外地及び国際会議場にふさわしい環境を保持し、俗悪な建築物や山膚の切取を防止するため」としている。
この指定面積は上京区と中京区を合わせた面積よりも広く、市街地だけでなく山林を含めて自然環境の豊かな環境と景観の形成を図ろうとする意気込みが感じられる。
この都市計画は翌年1月に告示され、これで都市計画規制の枠組みが固まった。

次に、2年後の1961(同36)年には都市基盤の整った市街地を形成するため、洛北第一地区の土地区画整理事業が都市計画決定され、5年後に事業決定された。
事業がスタートした年は国際会館が開館した年でもある。

さらに、国際会館が建設される宝ヶ池周辺は公園とする計画が進められ、国際会館建設工事中の1964(同39)年に「宝が池公園」が設置された。
その面積は、宝ヶ池や五山送り火の「妙」「法」を含む128.9ヘクタールにも及び、市内最大の広域公園となった。

かんがい用の溜池として江戸時代中期につくられ、江戸時代後期にほぼ現在の大きさになったとされる宝ヶ池と、その周辺の公園整備は、国際会館が北側隣接地に建設されることが決定してから施設整備が大幅に進み、子供の楽園(1964年)、菖蒲園(1971年)、憩の森(1974年)、桜の森(1977年)、北園(1978年)、野鳥の森(1992年)が次々と整備されていった。

宝が池公園

宝が池公園

最初に整備された子供の楽園はかつて競輪場であった。
この宝池競輪場は1949(同24)年12月に京都市により開始され、観客輸送のため同年から6年間、叡山電鉄の元田中―山端(現宝ヶ池)間で市電の乗り入れ運行が行われた。
しかし、高山市長は就任当初から競輪廃止の意向を強くもっており、市長3期目の1958(同33)年に全国に先駆けて市営競輪の廃止に踏み切り、子供の楽園として公園整備を行った。
当時の記録映像の京都ニュース(京都市広報課)は、『整備すすむ“宝池”周辺』のなかで「元競輪場は、『大人の地獄を子供の天国に』という市長の公約どおり子供の楽園に生まれ変わりました。」と謳っている。

子供の楽園

子供の楽園

宝ヶ池のある山の南斜面には「妙」と「法」の字がある。
「妙」が西山に、「法」が東山にあり、狐坂が二つを分けている。
狐坂の南には、2019年「宝が池公園運動施設体育館」がオープンし、これまでの球技場に加え、バスケ・バレー・フットサルなどもできる複合的なスポーツ広場として大きな期待が寄せられている。

宝が池公園運動施設

宝が池公園運動施設

松ヶ崎大黒天《妙円寺》

松ヶ崎大黒天《妙円寺》

※裏山が「法」

年表

西暦(昭和) 月  都市計画・公園・土地区画整理事業

1957(32)年11月……国際会館建設の閣議決定
1959(34)年9月……建設地を宝ヶ池とする閣議決定
同年11月……上賀茂風致地区の都市計画審議会への付議(昭和35年1月告示)
1961(36)年8月……洛北第一地区土地区画整理事業の都市計画決定(昭和41年3月事業決定/昭和55年11月換地処分)
1962(37)年11月……国際会館着工
1964(39)年5月……宝が池公園設置(128.9ヘクタール)
1966(41)年5月……国際会館開館(3月竣工)

参考文献
京都市市政史編さん委員会編 『京都市政史』第2巻、京都市、2012年
国立京都国際会館HP
京都市情報館HP

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京都国際会館があったから京都駅に新幹線の駅ができたの?
岩倉の風致地区は国際会館誘致の条件だったのネ
建物の形にそんな意味があったとは知らなかった
宝が池公園も国際会館建設で弾みがついたんだネ
子供の楽園が元競輪場だったとは知らなかった

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この記事を書いたKLKライター

京都市文化財保存活用・施設整備アドバイザー
松田 彰

公益財団法人 京都市文化観光資源保護財団 アドバイザー 
京都大学工学部建築学科卒、同大学院修了
一級建築士

1957年生まれ
1982年4月から京都市勤務
2018年3月に京都市都市計画局建築技術・景観担当局長で退職
2018年4月から2023年3月まで京都市文化財保存活用・施設整備アドバイザー
2023年7月から現職

著書:「花街から史跡まで 散歩でハマる! 大人の京都探訪」(リーフ・パブリケーション)
   「いろいろ巡ろ! 京都の文化都市施設」(KLK新書)
共著:「京都から考える都市文化政策とまちづくり」(ミネルヴァ書房)
   「『京都の文化的景観』調査報告書」(京都市)

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公益財団法人 京都市文化観光資源保護財団 アドバイザー 
京都大学工学部建築学科卒、同大学院修了
一級建築士

1957年生まれ
1982年4月から京都市勤務
2018年3月に京都市都市計画局建築技術・景観担当局長で退職
2018年4月から2023年3月まで京都市文化財保存活用・施設整備アドバイザー
2023年7月から現職

著書:「花街から史跡まで 散歩でハマる! 大人の京都探訪」(リーフ・パブリケーション)
   「いろいろ巡ろ! 京都の文化都市施設」(KLK新書)
共著:「京都から考える都市文化政策とまちづくり」(ミネルヴァ書房)
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