可憐、清楚、聡明、気高い、気丈、慈愛…「京女」から連想される言葉です。これらの要素をすべて備えていたのが細川ガラシャだといえます。戦国三大美女のひとりとして名を馳せた細川ガラシャは、明智光秀の娘であったことから悲劇の人としても知られています。ちなみに、戦国美女のあとの2人は織田信長の妹であるお市の方と、その長女で太閤秀吉の世継ぎである豊臣秀頼の母・淀の方です。また、元総理大臣の細川護熙氏は、細川ガラシャの末裔でもあります。

そんなガラシャの生涯に大いなる影響をあたえたもの、それは京都での幸福と絶望の交錯であったことは案外知られていません。戦国の世を気丈に生きたその強さ、そして美しさの原点は京丹後の厳しい風にありました。

明智家の娘から細川家の嫁へ

ガラシャの本名は珠(または玉)といい、1563(永禄6)年に明智光秀と妻・煕子との間に三女として生まれました。世代的にいうと、伊達政宗や真田幸村とほぼ同年代です。生まれ故郷は越前(現在の福井県)でした。当時の光秀は越前の大名・朝倉義景に仕えていたからです。文化人でもある父と才知に富んだ母の血を受け継ぎ、高い教養を身につけた才媛に育ちます。そうして珠が16歳に成長したころ、縁談が持ちあがりました。1578(天正6)年のことで、父光秀は織田家で目覚ましい活躍をし、近江坂本城をあずかる重臣として名を連ねていました。

結婚のお相手は細川忠興。光秀の盟友・細川藤孝の嫡男で、なかなかのイケメンだったとか。2人の仲を取りもったのはなんと織田信長。ふたり並ぶ美男美女のとり合わせに「まるでひな人形のようだ」と信長も喜んだそうです。そんな忠興と珠が新婚生活を過ごしたのが勝龍寺城、現在の京都・長岡京にありました。その後、細川氏が丹後国を授かると、天橋立を望む浜辺に宮津城が築かれ2人の新居となりました。この城の縄張り、今でいう設計をしたのが築城の名手でもあった光秀でした。娘夫婦のために新居の設計をする素敵なお父さんだったわけですね。

細川ガラシャ家系図

細川ガラシャ家系図

大名の妻から一転、謀反人の娘へ

幸せな夫婦生活を送っていた珠でしたが、結婚4年目に衝撃的なニュースが届きます。父・光秀が主君・信長を本能寺で討ち果たしたという報せです。この事件は忠興・珠夫妻を窮地に追い込みます。光秀と義父である細川藤孝は朋友であり光秀としては当然、自分に味方してくれると計算していました。ところが藤孝は信長の死を聞いて喪に服し剃髪、「幽斎」と名乗り出家します。光秀には味方しないという意志を表したわけです。

当然、藤孝の息子である忠興も光秀に味方せず、秀吉サイドにつきます。珠にとっては、実家と嫁ぎ先が敵対する事態となりました。それどころか自身が逆臣の娘として連座に問われる罪人となってしまったのです。本来なら主君である織田家に珠を差し出すべきところですが、妻を溺愛していた忠興にはできませんでした。といって謀反人の娘を放置するわけにもいかず、丹後半島の味土野(みどの)という深山に、珠を幽閉つまり軟禁します。間もなく山崎の戦いで秀吉に敗れた父の無残な最期を知らされた珠は悲嘆にくれ、虚ろな日々を過ごします。やがて冬となり、味土野の凍てつくような強い風が珠の顔から笑顔を、心からはぬくもりを奪い去りました。同時に氷のように冷たい表情が、透きとおった美しさを際立たせていました。そんな珠の心を癒してくれたのが異国の宗教、つまりキリスト教でした。珠は慈悲深いキリストの教えに心を揺さぶられ、辞書を片手に独学で聖書の原文を読むなど、キリスト教に強い関心を抱くようになります。

「細川忠興夫人隠棲地」石碑 (京丹後市弥栄町味土野)

「細川忠興夫人隠棲地」石碑 (京丹後市弥栄町味土野)

味土野は標高613メートルの修験の山にある秘境で、隠れ家としては恰好の場所だった。

厳しい丹後の風雪が珠を磨いた。

そのまま2年の歳月が流れたころ、中央では天下の趨勢が秀吉の掌中に収まろうとしていました。大名たちは大坂城下に住むようになり、忠興も大坂に屋敷が与えられます。このとき秀吉は、忠興の珠への心を見抜いていたのか、あるいは後述するエピソードの下心からかはわかりませんが、罪人の娘である珠を許し、珠の大坂住まいを認めました。夫婦としての生活が戻った珠でしたが、心は閉ざされたままでした。彼女の心にあるのはキリストの教えだけ。そこで珠は顔を隠して教会に出向くようになり、ついに洗礼を受けるまでになります。珠25歳、「細川ガラシャ」誕生の瞬間です。ガラシャとはラテン語で「Gratia」と書き「神の恵み」を意味します。ガラシャとなった珠はオルガンを弾き、カステラを焼き、貧しい人々へ施しをする日々を過ごします。気がつけば、珠の表情に笑みが戻っていました。

武人の妻の心意気

ところで、忠興夫妻の仲は睦まじかったようで、3男3女を儲けました。しかし、夫・忠興のそれは熱愛というよりは偏愛的といった方がよいかもしれません。嫉妬深い忠興は、珠が屋敷から一歩でも出ようものなら、世の男どもからナンパ攻勢を受けるのではないかと案じ、妻の外出を禁じるほどでした。でもこんなのまだマシである日、珠が屋敷で庭の手入れをしている植木屋さんに挨拶をしたところ、植木屋さんも珠に挨拶を返しました。たったそれだけです。何の話って?その植木屋さんが首を斬られた理由です。さすがにやりすぎでしょう。千利休の高弟として有名な「利休七哲」に名を連ねる文化人とは思えない狂いっぷりです。

いっぽうの珠は、常に毅然とした態度を示す強い女性でした。あるとき、秀吉から珠に大坂城への登城命令がなされました。天下人の招きですから名誉なことです。しかし、これはとんでもなく危険なことを意味しています。秀吉はよく言えば「英雄、色を好む」、悪く言えば「節操のない色キチ」です。これまでも多くの大名たちが奥方をNTRされた(イマドキ語ですね。「≒秀吉の毒牙にかかる」と解釈してください)という噂が絶えませんでした。ましてや天下に誉れ高き美女といわれる珠です。呼び出してお茶飲んで「ホナ、サイナラ」とは考えられません。といって、天下人の命令を拒めば細川家がどうなるか…。そこで珠は一計を案じました。いよいよ秀吉との対面の日となり、珠は秀吉の面前に拝謁します。すかさず「もそっと近う…」と秀吉は早くもヤル気マンマンで手招きします。秀吉の射程圏内に入った珠は深々と頭を下げ、秀吉が生つばを飲み込もうとしたその時でした。「ゴトッ」という音ともに珠の懐から落ちたのは短刀でした。つまり、貞操を守るためには自決も辞さないという強い意志の表明です。さすがの秀吉もガラシャ決死の覚悟の前にはあきらめざるを得ず、かくして珠は武人の妻としての鑑といわれるようになりました。

細川忠興 玉(ガラシャ)像 / 長岡京市 勝龍寺城公園内

細川忠興 玉(ガラシャ)像 / 長岡京市 勝龍寺城公園内

誇りとともに散りぬ

さて、天下人・秀吉が亡くなった後、徳川家康と石田三成の対立が深まり、諸大名はどちらにつくのか決断を迫られました。忠興は恩義を感じている家康陣営につくことになり、いよいよ天下分け目の関ヶ原の戦いへと機運が高まってきました。このとき三成は徳川方の大名に揺さぶりをかけるため、大坂に住む大名夫人たちを人質にとろうと画策しました。石田方、つまり西軍はガラシャの身を確保しようと細川屋敷を取り囲みます。しかしガラシャは「自分が人質になれば夫が存分に戦えない」と言って覚悟を極めます。キリスト教では自殺が許されないため、家老の小笠原少斎に自分を殺すように命じるのです。ためらう少斎ではありましたが、この土壇場では迷うこともままならず、握りしめていた長刀でガラシャの胸元を貫くのでした。壮絶な最期を遂げたガラシャの顔には心なしか慈愛の笑みがこぼれていたかのようでありました。享年三十八、佳人薄命かくの如くしの生涯でした。

散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ

ガラシャ辞世の句です。「散るべき時を知っているからこそ、花は美しい。人もそうあるべきだ」と解釈される歌に、彼女の潔さが表れています。ガラシャの訃報に忠興は声をあげて泣き、彼女の信仰心を尊重して葬儀はミサで送ったそうです。ガラシャの死は大きな衝撃となり、三成は人質作戦の中止を余儀なくされました。ガラシャの身を挺した決断のおかげで、多くの大名夫人が救われます。そして、ガラシャの死に憤激した忠興率いる細川軍は関ヶ原で奮闘し、東軍勝利に大きく貢献しました。家康は戦後の論功行賞(今でいう人事査定)で、忠興に大いなる恩賞を施しました。そこにはガラシャの決断をも讃える意味あいがあったといわれています。細川家は後に熊本藩を治めるようになり、歴代の藩主はガラシャを藩祖に等しく敬うようになりました。

世界に誇る京女の鑑

ガラシャの美しさと強さを珠のごとく磨いたもの、それは丹後の厳しい風だったのかもしれません。その美貌と凛とした佇まいは後世にまで語り継がれ、京の女性のあこがれとして崇められています。特に新婚時代を過ごした長岡京市では毎年11月にガラシャ祭を催し、彼女を讃え続けています。

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この記事を書いたKLKライター

八坂神社中御座 三若神輿会 幹事 / (一社)日本ペンクラブ会員
吉川 哲史

祇園祭と西陣の街をこよなく愛する生粋の京都人。

日本語検定一級、漢検(日本漢字能力検定)準一級を
取得した目的は、難解な都市・京都を
わかりやすく伝えるためだとか。

地元広告代理店での勤務経験を活かし、
JR東海ツアーの観光ガイドや同志社大学イベント講座、
企業向けの広告講座や「ひみつの京都案内」
などのゲスト講師に招かれることも。

得意ジャンルは歴史(特に戦国時代)と西陣エリア。
自称・元敏腕宅配ドライバーとして、
上京区の大路小路を知り尽くす。
夏になると祇園祭に想いを馳せるとともに、
祭の深奥さに迷宮をさまようのが恒例。

著書
「西陣がわかれば日本がわかる」
「戦国時代がわかれば京都がわかる」

サンケイデザイン㈱専務取締役

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