【秀吉一世一代の花見】700本の桜を植樹した醍醐の花見

お花見っていつからあったの?

今や日本の風物詩となっているお花見行事は、そもそもいつ頃からあったのでしょうか?遠くさかのぼると、その起源は奈良時代となります。でも、当時のお花見といえば梅の花を愛でることでした。昔の中国では花といえば梅であり、その中国文化が日本にも持ち込まれたのです。そしてお花見のあり方も今とは違いました。花見は貴族の文化、すなわち上流階級のための行事でした。飲食は伴わず、梅を眺めながら和歌を詠むのが貴族流のスタイル。お花見というよりは歌会の趣きであったようです。

さて、梅に代わって桜がお花見の主役に躍り出たのは平安時代のことでした。記録に残る最古のお花見は、平安京の神泉苑で嵯峨天皇が催した「花宴の節」だと言われています。そのため神泉苑は「お花見発祥の地」とも言われています。なお同所は「祇園祭発祥の地」とも言われ、何かと「発祥」にまつわるエピソードが多いことで有名です。しかし、この花宴の節も歌や音楽を楽しむ貴族スタイルで、今日的なお花見とは別ものでした。

では、私たちが楽しんでいる庶民的宴会スタイルのお花見はいつから始まったのでしょうか?それはこの人の登場を待つことになります。庶民の代表・豊臣秀吉さん、もとい太閤殿下です。

会場となった醍醐寺は京都伏見に君臨する真言宗醍醐寺派の総本山です。世界遺産にも登録された壮麗な山門は別名「花の醍醐」として知られる京都屈指の桜スポットでもあります。しだれ桜、ソメイヨシノ、山桜、八重桜など約1,000本もの桜が次つぎと花開きます。とくに総門から三宝院へと続く桜のトンネルは圧巻です。

 
 

秀吉一世一代の宴「醍醐の花見」

豊臣秀吉といえば「派手好き」で有名ですよね。そして主人であった織田信長にならいイベント好きでもありました。同時に「人たらし」の秀吉らしく、周りの人々を喜ばせることにも心を砕いていました。その好例が、関白秀吉が自ら点てたお茶で一般庶民をもてなした、京都「北野大茶湯」であり、5,000人が5日にわたって集った奈良「吉野山の花見」、そして伏見の「醍醐の花見」なのであります。特に慶長3(1598)年に催された醍醐の花見は秀吉最晩年のことで、そこには秀吉の人生を集大成させるような並々ならぬ想いが込められていました。

まず、何がすごいって、たかだか花見のために大工事が行われたというのですからビックリです。構想自体は前年から決まっていたそうですが、正式決定されたのは開催のわずか1ヶ月ちょい前。秀吉は徳川家康、前田利家など、そうそうたる大名を従えて醍醐まで下見に出かけたそうです。ここから突貫大工事がはじまります。その内容がスゴイんです。まず700本もの桜を吉野や近江など畿内からかき集め移植します。これがなんと1週間で完了したそうです。さらに桜にふさわしいロケーションとするべく、醍醐寺三宝院の復興をはじめ、寺内各所の御殿や庭園などの修理を命じます。まるでアラブの石油王のような豪遊っぷりですね。この間、秀吉自ら何度も現場に足をはこび指揮をとったそうです。考えてみれば、たった一晩で城を築いたという「墨俣の一夜城伝説」で名を馳せた秀吉のこと、工事はお手のものであったわけです。

醍醐寺 仁王門
咲き乱れる桜に門が隠れています。

ハーレムお花見?

こうして迎えた花見当日の参加者は約1,300人。人数自体は吉野の花見の方がはるかに多いのですが、特筆すべきは男女比率です。1,300人中、男性は何人だったか?秀吉とその息子である秀頼、そして前田利家、以上です。なんと、たったの3人です。実は私、この記事を書いていて「アレっ」と思いました。下見には来ていた徳川家康が参加していないのです。なんか家康、カワイソウ…。それはともかく、99.769%が女性という超ハーレム状態の花見だったわけです。うらやましくない、といえば嘘になりますが、それはそれでメンドクサそうです。実際、宴の席ではともに秀吉の側室である淀の方と松の丸の大ゲンカが勃発します。原因は盃を受ける順番をめぐってのことでした。

たぶん、こんな感じかと…。

淀の方は何といっても豊臣家の跡継ぎである秀頼を生んだことで、正妻・北政所(ねね)に迫るほどの権勢を誇っていました。だから自分が北政所の次に盃を受けるのは当然だと主張します。

一方、松の丸の言い分はこうです。「自分は名門・京極家の出身。淀の方の父は浅井長政であり、その浅井家はかつて京極家に仕えていた。つまり家柄が主家筋である自分の方が先であるべきだ」と。

私だったら「そんなん、どーでもええがな。それより早よ乾杯しよ」と思うのですが、そこは女のプライドがバチバチの世界。絶対に譲れない一線だったようです。この見苦しくも激しい争いを収めたのが前田利家の正室・まつでした。大河ドラマの主役として松島菜々子さんが演じていましたね。このまつ様が「歳の順からいえばこの私」と2人の間に割って入るのです。北政所とは数十年来のつきあいがある、まつの言葉には重みがあったようで「女のバトル」に収拾をつけました。(諸説アリマス)。

さて、この花見で桜とともに美を競ったのが、秀吉の側室や大名の奥方連。彼女たちは、なんと2度のお色直しを命じられたそうです。ちなみに結婚情報誌「ゼクシィ」の調査によれば、結婚式のお色直しの回数は「0~1回」が79%だそうです。多くの女性にとって一生に一回の晴れ舞台よりも多いわけです。ところで、計3着の着物はすべて新調もので、この衣装代だけで現在のお金にすると40億円にも値するとか。まさしく秀吉好みの贅の限りをつくした宴でありました。

しだれ桜 春満開。

秀吉の家族サービス?

ところで、秀吉がここまで醍醐の花見に情熱をこめた理由は何だったのでしょうか?ここからはKyoto Love.Kyoto的な解釈となります。まず秀吉は自分の寿命を悟っていたのだと思います。だから、これが最後の花見になるであろうと。派手好み、イベント好きの秀吉としては、人生最後の晴れ舞台として醍醐の桜を選んだのだと考えられます。ここまでは秀吉らしい自己満足の世界です。しかし、秀吉の真意はもう一歩深いところにあったのではないでしょうか?それは残された家族への最後のサービスだったと思います。

死期を悟った秀吉にとって唯一の心残りは、嫡男・秀頼の行く末でした。晩年に授かった子宝であり、秀吉が命と生涯をかけて築いた財産を受けつぐ跡とり息子です。このとき秀頼は数えで6歳。ようやく物心がついたころです。花見をするなら最高の桜を見せて、秀頼の思い出として残してやりたい。と同時に、最愛の息子に父である自分の記憶を桜とともに残してもらいたい、そんな気持ちがあったとしても不思議はありません。世の多くのお父さんたちもきっと「ウンウン」と頷いてくれるのでは?

そして次なる家族として、秀吉が愛した女性たちがいます。正妻である北政所(ねね)はもちろんのこと、多くの側室を抱えた秀吉には妻と呼ぶべき女性が数多いました。ともすれば単なる女好きと思われがちな秀吉ですが、ひとりひとりの女性にはとても優しく接して、またロマンチストであったともいわれています。彼女たちにも秀頼と同じように、咲き乱れる桜を堪能してもらうと同時に、この桜の景色とともに自分の記憶を永遠に残してほしい、そんな気持ちもあったのではないでしょうか。

東山路傍の触れ仏 秀吉ねねの像

そう考えると、花見に男性を招待しなかったのも、うなずけます。男性、つまり大名や秀吉の側近たちが参加すれば、どうしても政治色が強くなります。それでは自分はもちろん、周りの女性たちも心底楽しむことができません。だから男性を排除したのだと思います。と考えると秀吉親子以外で唯一招かれた男性である前田利家、この人に対する秀吉の絶対的な信頼がうかがえます。まさに家族同然のつきあいだったのでしょう。また、その妻・まつが前述の女のバトルを裁くことができたのもナットクです。

醍醐寺 五重塔

つらつらと考えるに、700本の植樹も建物の大改修もすべては、秀吉の「おもてなし」だったのでしょう。唐入り(朝鮮出兵)をはじめ、あまり評価されない秀吉の晩年期ですが、人生最後の舞台では秀吉らしさが存分に発揮されました。花見が終わると、秀吉は床に臥せる日が多くなりわずか5ヶ月後に亡くなります。享年六十二。一代で築いた太閤立志伝の幕引きでした。

天下人秀吉の最後の幸せは、現世での財産などではなく、死後に自分が愛した人たちの記憶に残ることだったのかもしれません。醍醐の花見で見せた秀吉のおもてなしの名残として、醍醐寺では「太閤しだれ桜」が今も美しく咲き誇っています。


(編集部/吉川哲史)

醍醐寺三宝院 太閤しだれ桜
豊太閤花見行列
毎年4月の第2日曜日に開催される「醍醐の花見」を再現するイベント。秀吉をはじめ花見の主要人物に扮した行列が連なります。
【参考文献】
日本史を動かした女性たち/北川智子
一冊で読む豊臣秀吉のすべて/小和田哲男
日本で一番出世した男 豊臣秀吉の秘密/米原正義
ウィキペディア(Wikipedia)/醍醐の花見
世界遺産京都醍醐寺ホームページ
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この記事を書いたライター

祇園祭と西陣の街をこよなく愛する生粋の京都人。

日本語検定一級、漢検(日本漢字能力検定)準一級を
取得した目的は、難解な都市・京都を
わかりやすく伝えるためだとか。

地元広告代理店での勤務経験を活かし、
JR東海ツアーの観光ガイドや同志社大学イベント講座、
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などのゲスト講師に招かれることも。

得意ジャンルは歴史(特に戦国時代)と西陣エリア。
自称・元敏腕宅配ドライバーとして、
上京区の大路小路を知り尽くす。
夏になると祇園祭に想いを馳せるとともに、
祭の深奥さに迷宮をさまようのが恒例。

著書
「西陣がわかれば日本がわかる」
「戦国時代がわかれば京都がわかる」

サンケイデザイン㈱専務取締役

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