JR嵯峨野線という呼び方がすっかり定着してきましたが、正式には山陰本線です。京都から丹波や丹後、そして山陰の各地を結ぶ重要な鉄路でした。と過去形で書いてしまいましたが、今は亀岡や園部方面からの通勤通学路線という色彩が強く、優等列車はクルーズトレインの「瑞風」を除くと1時間に1本の特急電車が城崎温泉や天橋立・東舞鶴まで走っているだけで、貨物列車はもちろん運行されていません。

峡谷保津峡に鉄道を通す

その山陰本線ですが、明32(1899)年に園部まで開業させたのは京都鉄道という私鉄でした。
ご存知のように嵯峨(現在は「嵯峨嵐山」 以下「嵯峨」と表記)から亀岡に行くには急峻な峡谷・保津峡を通らねばなりません。保津川が山間をくねくね曲がりながら流れています。ここを当時の技術で鉄道を建設するのは大変でした。
最初に資材運搬用の軽便鉄道を建設するなど様々な難工事が続きました。
トンネルを掘る技術も未熟でしたから、トンネル区間は最小限にし、あとはその断崖にへばりつくように敷設されたのですが、それでも最長の朝日トンネル(499m)をはじめ8つのトンネルを掘らねばなりませんでした。
保津川を渡る大きな鉄橋をはじめ山の斜面の沢を越えるためのものを入れると50以上の鉄橋がかけられました。
また景観を損なわないというのが建設認可の条件だったので、石積みやレンガ積みも配慮されました。特にトンネルの入口は意匠の凝ったレンガ積みがあったようですが、列車に乗っている限り容易に見れないのが残念です。

昭和45年11月 嵯峨~保津峡間の旧線を行く下りのSL列車

昭和45年11月 嵯峨~保津峡間の旧線を行く下りのSL列車

(撮影:鈴木康夫氏)

この区間は距離も長く単線でしたので、途中で列車がすれ違うように、昭和4(1929)年に信号場が設けられていました。これが昭和11(1936)年に駅に昇格して旅客扱いが開始されたことにより、保津峡駅が誕生します。
また、馬堀駅は地元の熱心な誘致運動があったにもかかわらず、開業時には設置されず、昭和10年になってようやく駅ができました。
それは地元の乗客数がそれほど多くなかったと同時に蒸気機関車(SL)による運転でしたので、亀岡を出発し、途中で止まらずにボイラーの圧力を上げていっきょに保津峡を越えたいという技術的な側面もあったと推察しています。
なぜなら、その頃からガソリンカー(ディーゼルカーの前身)が走り出し、駅間距離が短くなっても運転に支障がなくなったからです。
並河駅や千代川駅もこの時に開業しました。

昭和50年10月 ディーゼル機関車が引く貨物列車が旧保津峡駅を通過

昭和50年10月 ディーゼル機関車が引く貨物列車が旧保津峡駅を通過

ところでそこそこお年を召した方なら保津峡から清滝にかけてハイキングや飯盒炊飯を
楽しまれた経験をお持ちの方も多いのではないでしょうか。その時は行き帰りに保津峡駅を利用されたのではないでしょうか。
狭いホーム、小さな駅舎(常は無人で利用者の多いときだけ駅員さんがいた)、保津川を渡るための吊り橋、小さな売店・・・駅に近い河原で飯盒炊飯をやる人もいましたし、もう少し東に移動して清滝川との合流付近で楽しむグループも少なくありませんでした。
目の前の保津川を行く「保津川下り」の乗客と手を振り合ったり、山陰本線を行くSLの汽笛が谷間にこだましたりと実にいい時代でした。
その上「汽車賃」以外、あまりお金も要りませんでしたし・・・

保津峡駅とディーゼル特急あさしおがプリントされたオレンジカード

保津峡駅とディーゼル特急あさしおがプリントされたオレンジカード

オレンジカード(プリペイドカード)そのものも今となってはなつかしい

保津峡に新線

昭和63年 小さな旧保津峡駅舎

昭和63年 小さな旧保津峡駅舎

その光景が一変したのが山陰本線嵯峨~馬堀間の別線による複線化でした。
これは京都~園部間の複線電化という大きなプロジェクトの一部なのですが、保津峡を通りぬける大工事ゆえに先行されたのです。
これにより嵯峨~保津峡~馬堀間は大きく路線が変わり、「風光明媚な保津峡越え」はなくなってしまいました。
当時の新聞に発表された計画図を見たときにはたまげました。あの保津峡を6つのトンネル(最長は1470mの小倉山トンネル)と5つの橋で、ほぼ直線状に「ぶち抜く」わけですから。
もっとも明治の旧線建設の時と同様、現在でも保津峡での工事はさまざまな困難がありました。というのは保津峡に通じる道路は道幅が狭く、大型のトラックやダンプカーは通れませんでした。
そこで谷あいに、一度に10トン運べるロープウェイを作って資材を運んだり、立て坑を掘ってトンネル建設の工期の短縮を図ったりしました。新しい保津峡駅は大きな鉄橋の上に作られましたが、その部材も1つが10トン未満になるように設計され、ロープウェイで運ばれたのです。
この新線工事は国鉄時代に着工してJR西日本に引き渡すいわば民営化のお土産のような事業でした。そして平成元(1989)年3月に新線に切り替えられました。

平成元年2月 工事も佳境の新保津峡駅付近

平成元年2月 工事も佳境の新保津峡駅付近

この複線による新たな線路の完成によって9.4kmあった嵯峨~馬堀間は7.8kmに短縮され、所要時間も大幅に短縮されましたが、もっとも新線完成時はまだ電化されておらず、京都~園部間が電化されたのは平成2年でした。
したがって約1年間はディーゼルカーやディーゼル機関車が引っ張る列車が新線区間を走っていましたので、今から思えばかえって違和感がありました。
その後園部まで全線複線化が完成し、列車の増発などすっかり都市近郊区間に変身しました。

そこで朝の園部行き普通列車で新旧の違いを比較してみましょう。飛躍的に改善されたのがわかります。

①保津峡で列車の行き違いがあった。
②嵯峨~馬堀は複線化されたが、まだ大半が単線だった。

余談ですが、鉄道ができるまでは京都~園部間に乗合馬車が走っていておおよそ5時間かかったそうです。それが今では45分、鉄道の発達ってすごいことですね。もっともこの区間の鉄道建設に奔走し京都鉄道の社長も務めた田中源太郎は、皮肉なことに大正11(1922)年に嵯峨~保津峡間で発生した列車転覆事故で亡くなってしまいました。

平成元年3月 新保津峡駅開業の日 架線は張られているがまだディーゼルカーが走っていた。

平成元年3月 新保津峡駅開業の日 架線は張られているがまだディーゼルカーが走っていた。

嵯峨野観光鉄道

新旧の保津峡の路線図

新旧の保津峡の路線図

嵯峨~馬堀間は完全に新たな路線になった結果、速く便利になったもののあの保津峡の豊かな自然を列車から眺めることはできなくなりました。そこでその旧線を活用して開業したのがJR西日本の子会社、嵯峨野観光鉄道のトロッコ列車なのです。平成3(1991)年4月に開業しました。
ディーゼル機関車と貨車を改造したトロッコ客車4両によって、ゆっくりとトロッコ亀岡駅まで21分の旅が楽しめます。日本人観光客のみならず外国人観光客にも人気で、後に1両増やされて現在は5両編成です。
もっともコロナ禍の影響で、今は乗客も激減とのこと。1日も早く元のにぎやかなトロッコ列車に戻って欲しいものです。

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この記事を書いたKLKライター

鉄道友の会京都支部副支部長・事務局長
島本 由紀

 
昭和30年京都市生まれ
京都市教育委員会学校指導課参与
鉄道友の会京都支部副支部長・事務局長

子どもの頃から鉄道が大好き。
もともと中学校社会科教員ということもあり鉄道を切り口にした地域史や鉄道文化を広めたいと思い、市民向けの講演などにも取り組んでいる。
 

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