忘れられない京の事件簿 ~悲惨な現場が物語る京の歴史~【前編】
戦国 ・ 安土桃山時代 (1568年~1600年)
本国寺の変
1569年(永禄12年)、室町幕府第15代将軍足利義昭を三好三人衆らが銃撃した事件。
その後、織田信長は義輝の二条御所跡に新しく防御力のある二条城を築き、将軍を保護した。(烏丸丸太町現平安女学院付近)
本国寺は、堀川五条周辺に広大な敷地があったが、現在山科に移転している。
本能寺の変
1582年(天正10年)6月2日、本能寺に滞在中の織田信長を家臣・明智光秀が突如謀反を起こし襲撃した事件である。
信長は早朝寝込みを襲われ、包囲されたのを悟ると、寺に火を放ち自害して果てた。
本能寺の変の動機は、日本史3大ミステリーとも言われている。
山崎の合戦
中国地方の毛利氏を攻略中の豊臣秀吉は、本能寺の変で信長の死を知った。中国遠征を中断し、全軍で京を目指し、1582年(天正10年)6月13日、明智光秀の軍勢と天王山麓の山崎において激突した。
秀吉は、この山崎の合戦で勝利し天下を治める。
名神高速道路の大山崎インターチェンジを降りてすぐの公園に小さな石碑と説明文がある。
小栗栖竹藪
明智光秀が最期を遂げた竹藪。光秀は、1582年(天正10年)6月16日、坂本城へ敗走中に農民の落武者狩りで落命したとされる。
小栗栖(京都市伏見区)の住宅街の一角に明智藪の碑と説明文がある。
明智藪の近くに光秀の遺体(胴体)が埋葬されたと伝えられている。
光秀の首塚
京都らしい風情の柳がゆれ、町家の連なる三条通り白川下ル東側に人知れず首塚がある。
光秀の首は、家臣によって隠されていたが、粟田口(京都市東山区にあった刑場)で首と胴が晒された。
その後、現在地に埋められ、塚がつくられ五輪塔墓も築かれた。
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昭和19年京都市北区生まれ。
理科の中学校教諭として勤めながら、まちの歴史を研究し続ける。
得意分野は「怖い話」。
全国連合退職校長会近畿地区協議会会長。
|自称まちの歴史愛好家|北野天満宮/今宮神社/千本通/明智光秀/怖い話
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