耳(鼻)塚

豊国神社西側の墳丘(東山区大和大路通)

豊国神社西側の墳丘(東山区大和大路通)

16世紀末、天下を統一した豊臣秀吉が、さらに大陸にも支配の手をのばそうとして、朝鮮半島に侵略した文禄・慶長の役(1592~98年)に関わる遺跡である。
秀吉配下の武将は、戦果の証として、敵である朝鮮の人々の耳や鼻を持ち帰りここに埋めて供養した。
戦乱下に被った朝鮮民衆の受難を、歴史の遺訓として、今に伝えている。

 

豊臣秀次事件

瑞泉寺(三条木屋町下ル)

瑞泉寺(三条木屋町下ル)

豊臣秀吉は甥の秀次を高野山に追放し、切腹に追い込んだ。その後、都で行われた悲惨な事件が「秀次事件」である。
1595年(文禄4年)8月2日、早朝より一族の女性たちは死装束で、母君の胸に抱かれた若君や姫君と共に牛車に乗せられ、聚楽第から市中引き廻しのあと三条河原に引き出された。
秀次の縁者というだけで、40名に及ぶ妻妾と子どもたちは三条河原の中州の秀次の生首の前で無残にも処刑されたのである。あたかも地獄絵を見るようであった。

伏見城の戦い  関ヶ原合戦前哨戦

源光庵血天井(北区鷹ヶ峯)

源光庵血天井(北区鷹ヶ峯)

血天井とは、武将が戦いで絶命した際の血痕が付いた建物の床板・縁板を供養などのため天井に張り替えたものである。
1600年(慶長5年)、関ヶ原合戦の前哨戦が伏見城で行われ、家康の部下であった鳥居元忠が西軍と戦い、奮戦かいなく自害した。
その際の血糊のついた廊下が血天井として鷹峯源光庵、正伝寺、養源院で保存されている。

 

江戸時代 (1603年~1868年)

宮本武蔵 一乗寺の決闘

一乗下り松(左京区一乗寺)

一乗下り松(左京区一乗寺)

一乗寺下り松において1604年(慶長9年)、宮本武蔵が、将軍家の兵法指南役を務めた吉岡道場の一門と決闘したと伝わる。
決闘後、東寺の塔頭「観智院」に身を隠したと言われ、その間に「鷲の図」と「竹林の図」を描いたと伝わる。
武蔵は、二刀流で知られる「二天一流兵法」の開祖、30歳になるまでに60回以上に及ぶ決闘を行い、負け知らずであった。
前半生は剣の武芸者として、後半生は思想家として生きた武蔵のイメージは、小説やドラマで作られ、時代のヒーローであった。

 

方広寺鐘銘事件

方広寺鐘銘(東山区正面通)

方広寺鐘銘(東山区正面通)

方広寺釣鐘に刻まれた「国家安康 君臣豊楽」という文言が「家康の名を切り、豊臣は君として楽しんでいる」と徳川家康がいちゃもんをつけ、大坂冬の陣、夏の陣へと発展した有名な鐘である。豊臣家が滅んだ原因の一端であった。
その背景には何やら豊臣と徳川の両者の見えないせめぎ合いが見え隠れする事件である。

 

豊臣国松処刑

阿弥陀ヶ峰山麓 国松と竜子の供養塔(東山区の東山)

阿弥陀ヶ峰山麓 国松と竜子の供養塔(東山区の東山)

秀吉の墓所・阿弥陀ヶ峰麓にある国松の五輪塔。六条河原で斬首、享年8歳。後方の大きい五輪塔は、秀吉側室の京極竜子の供養塔である。
秀頼と側室の伊茶との子が国松で秀吉の孫になる。血縁関係はないが、竜子は国松を可愛がっていた。1615年(元和元年)、六条河原で処刑された国松を哀れんで竜子が京都新京極の誓願寺に葬ったのである。
1898年(明治31年)、豊国廟が整備された時、竜子の墓と共に新京極の誓願寺から移された。

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この記事を書いたKLKライター

自称まちの歴史愛好家
橋本 楯夫

 
昭和19年京都市北区生まれ。
理科の中学校教諭として勤めながら、まちの歴史を研究し続ける。
得意分野は「怖い話」。
全国連合退職校長会近畿地区協議会会長。

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