近藤勇の晒し首

近藤勇は、江戸時代末期の武士、将軍・家茂の警護を行う「浪士組」に参加し、京に登る。京都の治安維持部隊として会津藩配下となり「新選組」の名を拝命。新選組局長となる。
鳥羽伏見の戦いで関東に逃れるが、下総国流山で新政府軍に包囲され敗れる。
1868年(慶応4年)東京板橋で斬首される。享年35。
首は三条河原で晒されるが、土方歳三が会津に持ち帰り、菩提し墓を建てたとも言われている。近藤勇の墓と伝わる遺跡は日本各地にある。

 

明治時代  (1868年~1912年)

琵琶湖疏水・殉職者の碑

蹴上インクライン(左京区粟田口)

蹴上インクライン(左京区粟田口)

京都にとって琵琶湖の水を引くことは昔からの夢であった。明治維新による東京遷都のため沈みがちだった京都に活力を呼び戻すため、琵琶湖疏水が建設された。
疏水の水力で新しい工場を輿し、舟で物資の行き来を盛んにしようという計画であった。
琵琶湖疏水の建設工事中や病気により殉職された17名の慰霊碑がインクラインそばに立つ。疏水設計者の田辺朔郎が私費で建立した碑。


大正・昭和・平成・令和時代(1912年~2021年)

室戸台風

知恩院山門南側(円山公園北側)

知恩院山門南側(円山公園北側)

1934年(昭和9年)京都市で最大瞬間風速42.1mを観測した室戸台風により、京都市内では校舎の倒壊が相次ぎ、児童112人が下敷きになり亡くなっている。
西院小学校(当時淳和小学校)では32名の児童と1名の教員が亡くなった。室戸台風で犠牲になった児童たちを悼む像が、知恩院の南に立っている。
この像は最後まで身をもって児童を守った様子であり、見る人の胸を打つ像である。

西陣空襲  空爆被災記念碑

空爆被災記念碑  辰巳公園(上京区智恵光院通出水)

空爆被災記念碑  辰巳公園(上京区智恵光院通出水)

京都は、アメリカ軍によって太平洋戦争中1945年(昭和20年)1月16日から6月26日にかけて5度にわたって無差別爆撃をうけた。東山馬町・右京区春日・太秦・御所・西陣。一番被害が多かったのは西陣空襲で死者は50名に。辰巳公園には「空爆被災を記録する碑」が建つ。ここにも戦争の爪痕が残る。

チンチン電車脱線事故

1946年(昭和21年)、深夜の最終電車で起こった脱線事故である。満員のチンチン電車がカーブを曲がり切れずに堀川に転落し、木端微塵になり18名が亡くなる。
乗客は進駐軍や若い女性のダンサーたちであった。北野歌舞練場は北野キャバレーとして進駐軍に接収され、酔った進駐軍が電車をハイジャックし、運転を誤ったようである。

五番町殺人事件

千本中立売西南付近

千本中立売西南付近

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この記事を書いたKLKライター

自称まちの歴史愛好家
橋本 楯夫

 
昭和19年京都市北区生まれ。
理科の中学校教諭として勤めながら、まちの歴史を研究し続ける。
得意分野は「怖い話」。
全国連合退職校長会近畿地区協議会会長。

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